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テストセンターの会場を出た伊織は、一瞬、大学のキャリアセンターへ足を運ぼうかと思案したが、結局、気づけば自宅方面の電車に乗っていた。始まったばかりの就職活動に対して、熱意が低すぎる自覚はある。しかし、伊織にとっては就職活動のみならず、世の中の大抵の出来事に対して、興味を持つこと自体が難しく感じられてしまうのだった。
駅から徒歩二十分という立地は、住み始めた当初ひどく不便だったが、今はこの帰り道も苦ではなくなった。三年以上住んでいればそれなりに慣れるものだ。ちらりと遠目に見えるアパートの一室に電気が灯っていることに気づき、微かに跳ねる鼓動を無理矢理押さえる。伊織は幾度か深呼吸をして、自室のドアを開けた。
「あれ、おかえり! 早かったねえ」
玄関にひっくり返る赤いパンプス。伊織はどっと疲労感を覚え、勝手に部屋へ上がり込んだであろう妹を呼んだ。
「志織……来るなら来るって言えよ」
「えー? だってこれ、おつかいだし。はいお裾分け入れとくからね」
冷蔵庫のあたりでがさごそ音を立てる志織は、実家の母親から何かを預かってきたらしい。きっとまた作りすぎたおかずの数品だろう。この年になってわざわざそんなことをする必要はないと何度言っても、心配性の家族たちには通じないようだった。
「あれ? これ、お兄ちゃんの服?」
またしても勝手に部屋の中を物色し始めた志織は、ハンガーに掛かったジャージを指差した。妹とは先月会ったばかりだが、ほとんど白に近かった金髪が別人みたいな黒髪に変貌している。きっとまた彼氏が変わったのだろう。
「ねえ、こんなジャージなんて着るっけ?」
「着ねえよ。近堂の」
「やっぱり! 相変わらずだよねえ」
志織は面白そうに笑うと、伊織の真横をすり抜けて玄関へ向かった。
「これから私もデートなんだ。いいなあ、私もお兄ちゃんたちみたいに長続きしたいよー」
「……もういいからとっとと帰れって」
「じゃ、近堂とお幸せにね!」
ドアが閉まる。かん、かん、かん、と階段を下りていく音が遠ざかり、やがて何も聞こえなくなってから伊織は鍵を掛けた。部屋の隅に掛けられた黒いジャージをぼんやり見上げる。お幸せにも何も。乾いた笑いすら出てこなかった。
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