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伊織はジャージに手を伸ばした。肌寒いと言って羽織ってきた癖に、帰りがけにそのまま薄着で帰ってしまったのはいつの夜だったか。安物のハンガーに掛けっぱなしになって忘れ去られた存在。引き寄せれば僅かに彼の香りがした。就職活動が上手く運べば、来年からは社会人だ。こうして会うこともなくなるだろう。そしてこのジャージのように、伊織も彼の記憶からは消え失せるはずだ。その前に、きっちりけじめをつけなければならない。彼が本当に望むものを手に入れられるかはわからないが、その手伝いをすることくらいは出来る。
「お邪魔しまーす、帰り早かったんですね……え?」
伊織の意識は深いところまで沈んでいて、だから一瞬反応が遅れた。狭苦しいワンルームに現れた近堂に気づいたとき、伊織の両手は彼のジャージをきつく握りしめたままだった。それどころか、鼻先はその黒い生地に埋めた状態でいる。
「相山さん……?」
「あ、いや、ごめん」
伊織は慌てて手を離した。目を丸くする近堂の視線。いたたまれない気分になりながら、自分の両頬に血が上るのがわかった。だって、まるで、こんな姿は――
「……寂しかったんですか?」
掠れた声がした。ますます顔が熱くなる。もうその目を見ていられなくて伊織は俯いた。ぐんと距離が縮まり、気づけば硬い腕の中にいた。子供をあやすみたいに頭を撫でられる。
「相山さん……」
ひどく優しい声と甘ったるい空気に飲まれそうになり、伊織ははっとした。硬直してされるがままだった身をよじり、その腕を引き剥がす。またしても呆気なく離れた彼を睨み付けて、伊織は自分の中の何かががらがらと崩れていく予感に襲われた。ずっと、ずっと見ないようにしていたのに。
「今! 今、あいつとすれ違っただろ。ついさっきまで居たんだよ、ここに」
「……あいつ?」
「志織」
「ああ、会いましたよ。ちょっと喋りました」
「あ、そ」
「そんなことより、答えてくださいよ」
「は?」
「寂しかったんですか?」
両肩を掴む手のひらが熱い。目を合わせることも出来なくて背けた顔、左頬に突き刺さる視線を感じる。もうやめてほしかった。抱きしめられる度、お前じゃないと言われているようで。その反面、触れる温度はいとおしさすら滲ませるから質が悪い。気づかない振りをして、本当はいつも抉られるような痛みを植え付けられているのは伊織のほうだった。
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