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深夜にキーボードを叩き続ける私のデスクに、取材を終えた乾はいつもと同じように気安い笑顔を浮かべて立ち寄ってきた。
「相変わらず地道だな、真面目というか根気強いというか」
「地味だって言いたいんだろ。これが性分なもんでな」
椅子の背もたれに寄り掛かって煙草を咥える私に、乾は眉を上げて言う。
「ここの社屋、全館禁煙だろ」
「夜中は良いんだよ、どうせ誰も居やしない」
引き出しから取り出した灰皿を机の上に置く私を見て、乾は苦笑いを浮かべる。
「サラリーマン記者の、ちょっとした息抜きって所か」
「放っておけ。こっちはお前みたいに身軽じゃないんだよ」
クリップ留めした原稿の束を捲る私の机の上から、乾は一本の万年筆を拾い上げる。
「まだこんなもん使ってたのか。大学の卒業記念品だろ」
「使いやすいんだよ。返せって」
私は手を伸ばすが、乾はおどけるように万年筆を振った後、それを自分のシャツの胸ポケットへと入れる。
「こいつ、借りてくよ。ちょっとばかし面白いヤマがあってな。お守り代わりだ」
「自分のがあるだろうが」
「あいにく俺は万年筆なんてレトロな趣味は無いもんでな。取材はモバイル端末とスマホで充分」
「ふん。それで面白いヤマってのは?」
「そいつはコンフィデンシャルだ。帰ってきたら教えてやるよ」
ポケットの中の万年筆をぽんぽんと手で叩くと、乾は気取った仕草で片手を上げて編集部から出ていく。
それが生きた乾と会う最後になろうとは、あの時の私は思ってもいなかった。
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