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場が和んだ頃合いを見計らって、私は上着のポケットから一枚の写真を取り出す。
「では、この男に見覚えはありませんか?」
「く、楠木さん。それ……」
慌てる坂居を目で制して、私は続ける。
「名前は乾康人。私の同僚なのですが、半年ほど前にこの近くで行方不明になっているんです」
「乾さん……ですか?」
辰岡は手にした写真をしばらく眺めていたが、首を横に振る。
「いえ、この方は見た覚えはありませんね。野指村に外から来る人は滅多にいませんから、もし訪ねられていたら覚えているはずですが」
丁寧な物言いだったが、一瞬だけその表情が曇ったような気がした。
「すみません、唐突に」
写真を受け取って謝る私に、辰岡は元の穏やかな顔つきに戻って返す。
「この辺りは標高の高い山は少ないんですが、幾重にも尾根が連なっていて切り立った崖も多い。霧の深い日などは、地元の人間でも道に迷うくらいですから」
「じゃあ……遭難も」
「しょっちゅうですね。あまりニュースにはなりませんが、山の深い場所に迷い込んでしまうと、結局見つからないことの方が多い」
「そう……ですか」
山の稜線に目をやり、辰岡はぽつりと呟く。
「あまり雲の流れが良くないですね。明日あたりは霧が深くなりそうだ」
同じように外に視線を移すと、空は重苦しい鉛色の雲に覆われ始めていた。
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