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数歩ほど細い道を進んで振り返ると、崖際に立った少女の手にはいつの間にか一本の縄が握られていた。その縄が突き出た斜面の岩に結わえ付けられているのを見た瞬間、私の脳裏に首をくくられた生贄たちの姿が過ぎる。
「な、何を……」
戸惑う私を見て、少女は輪になった縄の先を自分の首に掛ける。
「私の役目は、あなたを千咒峡に導くこと。それが叶えられた以上、私はもうここに留まることは出来ない。千咒峡は、紅緋だけが棲むことを許された場所だから」
「ま、待ってくれ。君は初めて会った時、私に言ったじゃないか。引き返せ、と。私をここまで連れてくるのが目的なら、あんな警告をする必要はなかったはずだ」
「……」
崖から歩を踏み出そうとした少女の足が、止まる。それを見て、私はゆっくりと彼女に近付いていく。
「君は紅緋の生まれ変わりなんかじゃない。君は仁和紅緒という、ひとりの人間だ。どこにでも居る普通の女の子だ。咒いや柵に囚われずに生きることだって、君ならきっと出来る。生贄になる必要なんてないんだ。だから……」
崖の縁に立つ彼女に、私は手を差し出す。
「頼む。頼むから……もうこれ以上、血を流さないでくれ」
「……」
少女は静かに私の方を振り返る。その瞳が、僅かに潤んでいた。
そして彼女は、これまで見せたことのない子供らしい笑みを私に向ける。
「ありがとう。そんなことを言ってくれたのは、あなたが初めてだった」
「……紅緒」
「でも、もう遅かったの。あの人はもう、すぐ傍まで来ている」
「あの人……紅緋のことか」
辺りを見渡すが、人の気配はなかった。だが紅緒は洞窟の中での寛司と同じようにそこに居るはずのない誰かに視線を送ると、再び崖の方に向き直る。
「そう。あの人はいつも私たちを見張っている。底のない黒い瞳で、生贄をじっと見つめたまま」
「そんな、こと……」
「誰もあの人の咒いから逃れることは出来ない。私も……あなたも」
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