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「乾……」
その肩に手を掛ける。だが白骨化した死体は音もなく崩れ落ち、粉々になった白い欠片が風に散っていく。
もしかすると乾は、私がここまで探しに来ると分かっていたのかもしれない。だからこそ最期の瞬間まで記者として万年筆を握り締め、私に野指村の……千咒峡の秘密を託そうとしたのだ。
「乾……お前」
手の中から飛び散っていく乾の骨を握り締め、私はその場に座り込む。
これで、全ての望みは断ち切られてしまった。坂居を、紅緒を、そして乾までも失ってしまった私には、もう何も残っていなかった。
力なく岩に寄り掛かる。腕時計は壊れてしまったのか、針は止まったままだった。
もう、歩き続ける気力もなかった。
乾と同じように、ここで朽ち果てるのだと思った。
千咒峡という閉ざされた空間にあるのは、立ち込める白い霧と果てしない静寂、そして頭上から照らす仄かな明かりだけだった。
深い霧の中、谷底から吹き上がってきた風が音叉のように耳の奥に鳴り響いていく。その風の音に混じり、どこからか私の名前を呼ぶ声が聞こえた気がした。
顔を上げると、うっすらと霞む景色の向こうに人影が見えた。
「……誰、だ?」
霧の中を、いや、霧を身に纏うように立った人影が、ゆっくりと音もなく近付いてくる。
それは……古めかしい白い着物を着た一人の女だった。
透けるように白い肌をした女が、長い黒髪の奥に隠れた黒い瞳でじっと私を見つめていた。
「お前……は」
次第に女の姿がはっきりとしてくるにつれ、その手に握られているものに息を飲む。
女の手に髪を掴まれてぶら下がっていたのは……血塗れになった紅緒の生首だった。
「紅……緒」
女が手を放すと、ごと、と音を立ててその頭部が地面に落ちる。先程まで私に微笑みかけてくれていた紅緒は、すでに表情を失った肉塊と化していた。
「どうして……こんなことを」
呟く私を、女は黒い瞳で見つめる。長い髪が風に靡き、その表情が露わになる。
ぞっとするほど、美しい顔立ちだった。
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