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聞いたことのない地名だった。周辺の地図にも載っていなかったはずだ。この地方特有の呼び方だろうか。
「その千咒峡って……どこにあるんだい。野指村の近く?」
だが娘は私の質問には答えず、木下駄で地面をならしながら木の枝に掴まって斜面に身を乗り出す。
「あ、危ないよ」
慌てて駆け寄ろうとした時、山から下りてきた坂居が声を掛けてくる。
「どうしたんですか、楠木さん」
「坂居、女の子が……」
だが再び振り返った時には、少女の姿は無かった。
急いで辺りを探してみるが、まるで神隠しにでもあったかのように娘の姿はどこにも見当たらなかった。
「お前、見なかったか。このくらいの身長で、赤い着物の」
「いやあ、上からも時々カメラで覗いてましたけど、見えませんでしたよ。もしかすると車の陰になってたのかも」
「……」
まさかこの急な斜面を駆け下りたとでもいうのだろうか。鬱蒼とした崖下を覗き込む私に、坂居がカメラを構えながら言う。
「惜しかったですね。写真に撮れてれば、いわくつきの村の近くに現れた謎めいた娘、なんて見出しが付けられたかも」
「あまりセンスのあるタイトルじゃないな」
「良いんですよ、俺は写真を取るのが仕事なんですから。記事は楠木さんに任せますって」
ボサついた髪を掻く坂居に、私は苦笑い混じりに返す。
「残念ながら、俺も実際には妖怪どころか超常現象のひとつも見たことが無いけどな」
「それは楠木さんが現実主義者だからでしょう? オカルト雑誌の記者の割に」
「実際、現実の方が堪らんことが多いのさ」
自嘲気味に言うと、私は再び車へと向かった。
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