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国代の言うことが確かだとすれば、私が立ち入ったあの野指村の光景は、いったい何だったというのだろうか。だが坂居のカメラも壊され、当時の取材記録らしき証拠が何も残っていない以上、私の言うことに信憑性は無いと思われても仕方がなかった。
全てが……幻だったとでもいうのだろうか。
「そんな……こと」
青褪めたままうなだれる私に、国代はポケットからビニールの小袋を取り出す。
「発見された時、お前が持っていたものだ」
「これは……」
ベッドの上に置かれたのは、錆びかけた一本の万年筆だった。
「お前の倒れていた近くで、乾の白骨死体が見つかった。死因は分かっていないが」
「乾の……」
「ああ。おそらく奴も道に迷って遭難したんだろう。気の毒なことをした」
滅入った表情で立ち上がった国代が病室の窓を開けると、見慣れない建物の建ち並ぶ向こうに幾重にも連なった山の端が見えた。おそらく野指村の近くの町の病院なのだろう。
私は万年筆を握り締めたまま、訊ねる。
「国代さん。私が見つかった峡谷に……霧は立ち込めていましたか?」
国代は不思議そうな顔をして答える。
「いや、晴れ渡ってたよ。良い天気だった。不謹慎かもしれんが、絶壁の間を川が流れる風景は絶景だった。ただ……」
「ただ?」
「後から地元の人間に聞いても、場所がはっきりせんのだ。元々人の立ち入るような場所じゃないらしくてな。昔あの辺りで猟師をやってた老人に聞いたんだが、あの峡谷で行方不明になった人間が見つかるのは、奇跡だと言われたよ」
「……」
「霧がどうかしたのか?」
訊ね返す国代に、私は首を横に振る。
すでにあの峡谷は、霧の立ち込める元の姿を取り戻しているのだろう。立ち入る人間を迷わせる、あの閉ざされた白い世界に。
「千咒……峡」
窓から見える淡い色をした空を見上げ、私は呟く。
開け放った窓から吹き込んでくる少し肌寒い風が、レースのカーテンを揺らし続ける。その向こう側に、霧が稜線に霞む山の姿が見えた。
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