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その日、大学の研究室から神野喜一郎の元へ足を運んだ茉瀬は、靄に隠されたという『朧月』、織倉 明日人なる青年についての人物像とその過去、そして喜一郎の孫にあたる、神野 雅との関係についてのあらましを、夏目 碧から聞くところとなった。
夏目は医科大学時代の同期であり、今は神野家お抱えのドクターになっている。
ビル王と呼ばれる神野開発グループの会長、神野喜一郎のコレクションとはもちろん別格であるもう一つの宝、孫の雅。
その孫が慕う、織倉明日人。
二人は相思の間柄だというが、お互いの関係がより深まるにつれ、明日人が自らの意識に違和感を訴え出したという。
その由縁については、明日人が中学生の時、あるいかがわしい組織に取り込まれ、虐待を受けていた時の洗脳が原因だろうと夏目は言った。
『名もない、存在すらはっきりしない倶楽部』
そこで明日人の調教に関わっていた者に植え付けられた記憶が明日人自身の意識に働きかけ、昏迷と嗜虐的覚醒を繰り返させているのではないかと言うものだ。
夏目はその人物と明日人のラポール(意識を操作した者との間)に、陰性(嫌悪、憎悪)ではなく陽性の転移(好意)があると疑っている。
つまり、明日人は自身を男娼に貶め、嗜虐的な思考へと洗脳した男への『好意』を認められずに、苦しんでいるというのだ。
それが顕著に発症した頃から、雅に対する想いを躊躇していると、、、。
夏目は大層気に病んでいたが、ざっと聞いた限りでは、そう大したケースでもなさそうだった。
何しろ茉瀬は現在も大学の研究室に籍を置く傍ら、将来犯罪に関わりそうな重い人格障害を持つ患者をクライアントとして多く抱えていたからだ。
しかしながら夏目同様、喜一郎に対してひとかたならぬ恩義がある身では、ここで、
『ああ、そうですか』
と他人事のように返すわけにはいかない。
いや、いかないが相手が神野喜一郎でなければ、どれほど恩義のある相手だったとしても、
『今抱えている研究と臨床実績を止めてでも診たい、つまり魅力的な患者ではない』
と、間違いなく断っていただろう。
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