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伸子は、医師の指先に小さなハエが止まっているのを見てそのハエを食い入るようにじっと見つめていた。医師が指先に止まったハエに気付いて小さく手を振り払うとハエは、伸子の顔の方へ静かな羽音を鳴らして飛んできた。伸子は、ハエを見ながら少し微笑んだ。
その様子を伺っていた医師は、深く溜息をついて話し始めた。
「父親、つまりあなたの元夫の方が何をしたのですか?」
伸子は、少し穏やかな表情で静かに頷きながらゆっくりと質問に答えだした。
「夫は、主に海外を渡り歩いていた写真家でした。その国の文化や歴史、様々な人間達の姿をレンズを通して見つめていた、妻の私が言うのも何ですが、素晴らしい写真家でした。個展を中心に写真集なども刊行しておりましたし、日本に居るのは一年の内三カ月くらいでしたが、私は夫の仕事が大好きでした」
医師は、伸子の話を聞きながら器用にパソコンのキーボードを叩いて紀章の電子カルテに詳細を打ち込んでいた。
「あなたの旦那さんは、何故亡くなられたのか?失礼ですが教えていただけますか?」
「紀章が三歳だったので今から約十一年前、夫はパプアニューギニアに仕事で長期滞在して写真を撮っていました。ある部族の取材がしたいと言っていました。そこで夫は、殺されたのです」
「殺された?のですか?」
医師のキーボードを叩く手が一瞬止まって医師は、伸子に慎重に問い直した。
「何故、殺されたのですか?」
伸子は、一回頷いた後、まだ診察室の中を飛び回っているハエを突然両手で挟み撃ちにして殺した後、手の平の上にプレスされたハエの姿を見せて、医師に問いかけた。
「このハエを、あなたは食べられますか?」
突飛な質問をしてきた伸子に医師は、一瞬身体を反らせて眉間に皺を寄せながら首を横に振った。その次の瞬間、伸子は殺したばかりのハエを口の中に放り込んでそれを涙を流しながら噛み続けた。
「伸子さん、一体何が?何があったのですか?」
医師は、動揺を隠しきれない様子だった。こんな事は長年の臨床経験上でも有り得ない光景だった。伸子は、ハエを飲み込んだ後、意を決したように口を開いた。
「夫は、パプアニューギニアのカルト集団によって殺された挙句、脳を生のまま、それ以外の部位はスープにされて食べられてしまったのです」
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