埋み火

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いつの間にか、日暮れが早くなっている。 誰が待つわけでもないのに、なんとはなしに足早になる。 部屋に入って間も無くすると、チャイムが鳴った。ドアの向こうにスーツ姿の男が立って居るのがみえた。 帰宅を見計らってなんの勧誘だよ。 そう思いながら、息を潜めていると、 「隣に越してきた者です」 と声が聞こえた。 隣?そういえば、暫く物音もしていなかったような…。 いつ空きになって、いつ引っ越して来たのか、全く無頓着だった。 チェーン越しに開けたドアの向こうで、男は会釈をした。 ドアを開くと、男はもう一度頭を下げて、ご挨拶と書いた箱を手に、にこりとした。 「夜分にすみません。崎と申します。宜しくお願いします」 「あ、香坂です。ご丁寧にどうも…」 「おやすみなさい」 「おやすみ…なさい」 細身のスーツ、営業だな。年の頃は俺と同年代か、少し若いか…。 反対隣には、アジア系の外国人が住んで居て、最近女が出入りしている。 「ハイ、コーサカ、イマカエリカ?」 などと、やけに人なつっこく声を掛けられたりする。結構うるさい日も多くて、隣の角部屋が空かないかしら?と思ったりもした。それなのに、いつの間に…。 袖触れ合うも多少の…とは言うが、隣人に気を留めることもなかった。 シャワーを浴び、コンビニで買ったスパゲティをレンジで温め、缶ビールを開けた。 ご挨拶の中身はハンカチ。 辛子色に黄色のイチョウの葉が敷きつめられている、お洒落な物だった。 崎と名乗った男のネクタイを思い出そうとしたが、覚えてはいなかった。 いつの間にか、イチョウが色づく季節になっている。 夏の終わり。残暑が続いて、いつまでも暑いて思っていたのに…。 イチョウの葉も緑を滴らせていた気がする。 なんだ、あれもこれも、いつの間にかって。リア充、楽しくてあっという間に過ぎるというわけじゃない。ルーティーンな毎日は当たり前に過ぎて行く。 季節は動いているのだ。 ただ、この部屋には留まっている物がある。留まったまま俺を離さない。
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