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「どうもありがとうございました。嫌なことは、ひと眠りして忘れちゃなさいよ。おやすみなさい」
おかみさんが仕事のグチをならべていたお客を送り出し、皿を片付ける。
陶器の触れあう音の間に、楽しげな鼻歌が聞こえた。
ひと晩寝て、記憶が消えているようでは、いつまでも新米のペーペーだ。
頭の中で、おかみさんがよく言う「ひと眠り」のセリフを皮肉った。
特に悪意はない。
余計なひと言は、オレの性分みたいなものだ。
さて、オレも帰るとするか。
「ごちそうさま。魚の煮付け、美味かったよ」
「永井さんはいつもクールよね。ひとつも仕事のことは話さないし」
「おかみさんがきれいだから、言葉が出ないだけだよ」
「あら、まあ。若いのにお上手なこと。いつもありがとうございます」
陽気な声に送られて、誰が待つこともないマンションに帰った。
フロントの顔認証システムがオレの機嫌をうかがって、ロックを解く。
たどり着いた玄関でモニターにウインクをすると、紺色の扉が乾いた音とともに、スライドした。
指紋のように、瞳も同じ模様を持つ者はいない。オレの目が鍵替わりというわけだ。
一歩入ると、センサーが作動し、あかりがともる。
だが、オレはろくに着替えもせずに、ベッドへと直行した。
天井を見るともなしに見つめ、今日あったことをふり返る。
この習慣おかげで、朝になっても記憶が消えていることなど、オレにはない。
明日はまた、汚れた仕事が待っている。
ベッドに横たわったまま、展開を軽く予想して、オレは静かに目を閉じた。
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