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久子家出する
そして、明けて2012年の春は、久子がいきなり家出した。
この春は、さーちゃんが家にほど近い病院で実習することになっていたため、一時的に実家に戻ってきていた。久々に家族が揃い踏みだ。夏にはレギュラー化したアニメ制作も待っている。お母さんとお姉ちゃんは、またバタバタと忙しくなるはずだ。
お母さん家出のきっかけは、ももちゃんの買ったばかりの靴を、お母さんが黙って履いていったことだ。編み上げのショートブーツだったのだが、歩いていると突然靴ひもが引っかかって絡まり、地下鉄の改札の前で派手に転んだ上に、腕をひどく捻ってしまったのだ。そしてその苛立ちを、無遠慮にももちゃんにぶつけた。
「なにあのブーツ、不良品じゃないの」
いきなり吐き捨てるようにそういわれたら、ももちゃんだって腹が立つ。買ったばかりでまだほとんど履いていないブーツを、勝手に履かれた上に、ひもが切れて戻ってきた。そのうえ、なぜこれ以上怒られなければならないのか。ケガをして苛立つのはわかるが、私が見ていても、これはお母さんが悪い。
派手な言い争いになったのだが、さーちゃんもももちゃんの味方についた。さーちゃんはさーちゃんで、お母さんに対する積年の思いがあったのだ。何しろ久子は『歩く横暴』だ。自分の思い通りにならないと、すぐに声を荒げて怒り出す。私も今回ばかりは、ももちゃんの味方だ。3対1でかなり酷い罵りあいになった。でも、私はもともと、こういう争いごとに向かないうえに、あまり発言力も影響力もない。悔しいが、いつまで経っても〈うちのおチビちゃん〉なのだ。
「もういい! もうわかった! あんたたち、もう大人なんだからなんとかなるよね」
久子はいきなりそういうと、財布だけを持って、車でどこかへ出かけてしまった。カーディガンにジャージだったと思う。そして、それきり行方をくらました。
最初に慌てたのはももちゃんで、出勤を控えていたのに、お母さんに車を乗っていかれたらどうにもならない。我が家の一台きりの軽自動車は、朝と夜の時間帯により、うまく家族内で持ち回りしていたのだ。さーちゃんにしても、実習先の病院へ行くのにないと困る。ちなみに、私たちが住んでいる地域は、車がないとどこへ行くにも不便なのだ。
真っ先にお母さんの携帯に電話したが、それはリビングのテーブルの上で無意味な着信を鳴らした。うーん、三分で手詰まりだ。こういう時にお母さんの行きそうなところと言えばどこだろうと、困り果てた私たちは考えた。ちなみに、私もこの頃、高校の入学説明会を控えていたのだ。
「おばあちゃんのところじゃないの?」
ももちゃんが不機嫌に言った。
「そこまで!?」
お母さんの実家は福井県だ。
「若狭かー。さっき出てったばっかりだから、当分着かないよね。順調にいって車で十時間ぐらい? おばあちゃんに連絡するにしても明日だよね」
さーちゃんが冷静に言った。
「そうかな。お母さんって方向音痴じゃん。ナビも地図もなくてそんな遠くまで行ける? しかもジャージで。私なら絶対そんなことできないよ」
車の搭載装備を思い出しながら私が言った。
「確かに。遠すぎるかな。もう少し待ったら、ひょっこり帰ってくるかも」
「でも、久子のやることだからなー」
さーちゃんが言った。
「っていうかさ、明日アニメの打ち合わせだって言ってなかったっけ?」
「言ってた!」
「誰が行くの?」
「私しかいないでしょ」
さーちゃんが言った。
「病院実習どうするの?」
私が聞くと、さーちゃんは
「事情説明して休むしかないね」
そうか、アニメ優先なのかとチラッと思ったが、その前のセリフに引っかかった。
「ちょっ、説明するの? 事情を? お母さん家出しましたって?」
ももちゃんまでびっくりしてさーちゃんを見た。
「え、ダメ?」
きょとんとさーちゃんが言った。
「ダメじゃないけどさ、うちのお母さん、ヤバイ人ってなんない?」
私が恐る恐る聞くと、さーちゃんは、なるほどというように言った。
「あー、そう思う人もいるかもねー」
「恥ずいじゃん?」
ももちゃんが食い下がる。
「しょうがないじゃん」
しょうがない? っていうか、私たちが黙っていればいいんじゃないのと思ったら、ももちゃんがそう言ってくれた。
「じゃあ、なんていうの?」
さーちゃんが逆に質問してきた。
「え、風邪ひきましたとか?」
ももちゃんはさっき、キャバクラに体調不良で休みますと連絡していた。
「でも、いつ帰ってくるかわかんないんだよ?」
「帰ってこないのかな?」
さーちゃんのその言葉に、思わず大きな声で反応してしまった。ももちゃんもショックを受けたように黙ってしまった。
「大体、ホントにおばあちゃんのところ行ったのかもわかんないし、様子伺うにも、携帯置いてっちゃったから連絡つけられないじゃん」
「……」
「……」
私とももちゃんは、ここで初めて、ことの深刻さに言葉を失った。
「なに二人とも、急に黙っちゃって。大丈夫だって」
「……私たち、考えてみれば結構ひどいこと言ったよね? お母さん、自殺とかしちゃったりして……」
私のその言葉に、ももちゃんが息を呑んだのがわかった。そして唐突に、黙ってぽろぽろ泣き出してしまった。
「わあ、ごめん、ごめん、ももちゃん! ウソウソ!」
「大丈夫だってば」
さーちゃんが苦笑しながら言った。
「なんでそんなことわかるの? あたし、さっきひどいこと言った。お母さんに死ねって言った」
ももちゃんがそう言って泣くのを見て、つられて私も泣いてしまった。
「うーん、私は単に、怒りに任せて出て行っただけだと思うけど。なんていうか、お母さんってエネルギー過多っていうかさ、体力ないくせに精神エネルギー多いっていうか、軽自動車にトラックのエンジン積んでるみたいな……?」
私とももちゃんが、うまい言葉を探しながら説明しようとするさーちゃんを見つめた。
「要するにさ、すごく怒っているにしても、死にたくなるほど悲しくなっちゃったにしても、なんか、カーッとなったそのエネルギー、どっかでガス抜きしないといられないっていうかさ、衝動的に家出するぐらいがちょうどいいっていうか、むしろお母さんらしいっていうかさ」
「だから衝動的にどっかで……」
ももちゃんが暗い目でそう言葉を切ると、さーちゃんがきっぱりと言った。
「どっかから飛び降りるだけなら、うちのベランダからでもいいんだよ」
私とももちゃんが息を呑んだ。うちは公団住宅の四階だ。
「だから、わざわざ財布もって車に乗って出ていくなんておかしいでしょ?」
さーちゃんにそう言われると、そんな気もしてきた。
「カーッとなった感情、家出で消化しようとしてるってこと?」
そうそうとうなずきながらさーちゃんが言った。
「ももが家出繰り返してた時のこと思い出してみなよ。大体お母さんとケンカした後でしょ。あの時死んでやるって思った? 思っても実行できなかったから、今ここにいるんじゃん」
DQN時代にプチ家出を繰り返していたももちゃんが、過去を振り返るように床の一点を見ながらゆっくりうなずいた。
「でしょ? そうやって、お母さんも自分で無意識にサイアクを避けてるんじゃないかな」
確かにそうかもしれない。どこかから飛び降りるにしても、首を括るにしても、やろうと思ってすぐにできることじゃないような気がする。最後の最後には、たくさんの力をその一瞬に総動員して、文字通り必死にならなければならないような気がする。
わかんないけど。
「だから、お母さんは、大丈夫」
さーちゃんは、一言一言ゆっくり区切りながら言った。さすがお姉ちゃん。浪人生活時代、人生で一番死にたくなった時代を経ただけのことはある。
「……と、思う」
なんだよ。ちゃんと締めてよ。
「でも、うん、なんとなく、お姉ちゃんの言いたいことはわかる」
ももちゃんが顔を上げた。
「うん。お母さんはあれでも、私たちを傷つけたいと思ってるわけじゃないんだよ」
お姉ちゃんのその言葉が、案外しっくり来た。
「そうかも。失敗続きだけどさ」
私がそういうと、さーちゃんとももちゃんが「ホントに」と言って笑った。
それから五日後に、お母さんは帰ってきた。出て行った時と同じ、カーディガンにジャージ姿で。やっぱり若狭のおばあちゃんのところに行ったというのだが、最初は沖縄に行こうと思ったというのだから呆れた。
「だって、一度は行ってみたかったんだよ」
私たちのあきれ顔を見て、お母さんは付け足した。
「方向音痴でもひたすら西に向かって行けばいいわけじゃん? でもさすがに、名古屋辺りで疲れてきたわけよ。夜通し運転してたし。で、一旦、実家に寄って休ませてもらって、そこからまた行けばいいかなと思って」
あははと笑うお母さんは、むっつり黙って見返す私たちを見て、さすがに笑顔をひっこめた。
姉妹で、帰ってきてもやたらと責めるまいと決めていたのだ。
「えー、と、すみません。ご心配おかけしました」
お母さんはそういって、珍しく私たちに頭を下げた。それ以降、お母さんは真面目にアニメ制作に打ち込んだ。
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