アニメ化からのももの交通事故

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アニメ化からのももの交通事故

 コミックのアニメ化に関しては、T社のOさんが、企画書とともに、さーちゃんとお母さんが描いたコミックを持って番組放送局へプレゼンテーションに臨んでくれた。まずはここで企画が通らなければ、アニメ化はない。  これは、フィクション、ノンフィクションを含む、ありとあらゆる映像化作品のほぼすべてが、乗り越えなければならない最初の試練なのだそうだ。  当然、実績と名がものをいう世界でもある。だから、本来なら、無名の薬学生が思いついたアイディアがアニメになる確率は極めて低い。いや、ないと言ってもいい。  まぁ、細かく言えば、その前にT社のプロデューサであるOさんのお眼鏡に叶わなければ、Oさんが放送局に向けてプレゼンを頑張ってくれることもないわけで、久子によれば、まず多くの作家の多くの作品が、この時点で没を食らうのだそうだ。  でも、幸いにもさーちゃんのアイディアは、そこを早々にクリアしてしまった。お母さんの心を掴んだように、Oさんの心も掴んだのだ。あとはOさんの仕事ということになる。そのOさんの最初の戦略が作品のコミック化なのだ。そうすることで、Oさんはまず、無名の薬学生に実績を作ったのである。  とにかく、当時Oさんがプレゼンに挑んだ番組枠は、NHKの『青山ワンセグ開発』という携帯向けのミニ番組だった。これは同時に、地上波のEテレでも放送される。  番組内で放送される五分間作品の数は、さーちゃんのを含め、全部で9本と決まっている。各制作会社から持ち込まれた数十本の中から、まずはNHKの番組スタッフが企画を9本に絞り込む。  Oさんの頑張りで、まずはこの9本の中に残った。企画書で勝負するのはここまでだ。  ここからは、実際の番組制作に入り放送に至る。通常のドラマやバラエティなどの放送番組は、おおむねこんな道程を辿る。  ところが『青山ワンセグ開発』という番組だけは独自のシステムを持っていて、絞り込まれた9作品はさらに、視聴者の投票によるトーナメント方式で三週に渡ってバトルし、最終的に一本に絞られる。そしてその優勝作は、全二十話分のレギュラー番組を獲得できるというのだ。  タイトなスケジュールの中、Oさんをはじめ、お母さんはもちろん、多くのスタッフが、お姉ちゃんのアニメを作ってくれた。    そんな中、お母さんが原作者特権を使って私たちに『青山ワンセグ開発』の番組収録を見学させてくれた。放送日よりひと月ほど前のことだったと思う。収録はずいぶん早いんだなと思った覚えがある。  一家でいそいそと青山のスタジオまで出かけ、当時、のちに大リーガー選手の奥さんになる里田まいちゃんを目の前で見た。テレビで見るよりずっときれいだった。  初めて見るテレビ番組収録のスタジオは、思った以上にたくさんのスタッフがいて、楽しいバラエティ番組の性質とは裏腹に、みんなキビキビ忙しそうに動き回っていた。  能天気な私たちが、案内されてノコノコとスタジオに入ると、 「原作者さん、入りまーす!」 というディレクターの大きな声が響き、びっくりして飛び上がった。  隅っこでそっと見学するだけだと思っていたら、なんと席まで用意されていたのだ。私たちは完全に場違いだ。というか、どう考えても番組収録の邪魔者だ。あまりにも恐縮しすぎて、さすがの久子も、いつでも逃げ出せるように椅子に浅く腰掛けているのがおかしかった。  これだけなら、家族の楽しい思い出の1ページで済む話なのだが、我が家の場合、ことはそう順調に進まなかったのである。収録見学から帰ってきてひと月ほど経ち、栄えある第一回目の放送日、でっかい波乱が待っていた。師走も押し迫った年の瀬である。さーちゃんは銚子で放送を見ているはずだ。  翌日、というかその日、第一回目の放送が始まる日の明け方、またしてもお母さんの携帯が鳴った。着信はももちゃんだ。いくらももちゃんとはいえ、あまりにも非常識な時間帯だ。嫌な予感がして電話に出ると、見知らぬ男性が叫ぶように喋っている。 「もしもし! もしもし! 花井ももさんのお母さんですか?」 「!?」  何よりもお母さんを凍り付かせたのは、その声の背景でガンガン鳴っているのが救急車のサイレンだったからだ。 「こちらは救急車です!」 「あ、あの、もも、ももに……」 「はい、実はももさん、信号待ちでトラックに後ろから追突されまして、今病院に搬送中です」 「あ、あ、ああ」  さすがの久子も声を失った。 「お母さん、ももさん大丈夫です! ですからどうかしっかりしてください!  今搬送先の病院お知らせしますから、メモ取れますか?」 「は、はい、はい!」  私が目を覚ましたのは、お母さんが携帯片手に泣きながら廊下をバタバタしていたからだ。  さーちゃんの病気を機に、ももちゃんはこの頃、一旦一人暮らしをやめて実家に戻っていた。勤めていた美容院も辞めたので再びキャバクラで短期のバイトに励んでいた矢先の事故だった。仕事帰りの明け方、信号待ちしている際に後ろから居眠り運転のトラックに追突されたのだ。   お母さんは、今すぐ病院に駆けつけようとして、肝心の車をももちゃんが乗っていたことを思い出した。今頃お釈迦だろう。にっちもさっちもいかないことに愕然としたお母さんは、タクシーを呼ぶという考えが頭に浮かばなかったようで、普段なら考えられないことをした。お父さんに連絡したのである。ももちゃんの搬送された病院が、お父さんの住まいにとても近かったということもある。 「ももが、ももが……」  震える声でももちゃんの名前を何度も繰り返しながら、自分の話そうとする内容にショックを受けて絶句するという、とても奇妙な電話を受ければ、お父さんでなくとも異常事態だと察するだろう。  なんとか久子から事情を聴きだしたお父さんは、病院が近いこともあって、とりあえず先に様子を見てから迎えに行くから待っていろと言ったらしく、お母さんは電話を切るなり激怒して携帯を(クッションに)叩きつけた。 「バカー!! おまえが先に行くな――!!」  どういう競争だ。  お父さんが来るのを待って、土砂降りの雨の中、ももちゃんのいる病院に駆けつけた。わかりにくい病棟を右往左往しながら、やっとのことでももちゃんのいるベッドに到着すると、なぜかホストのようにチャラい茶髪の男性看護師に、 「もー、今日の夜勤は全然休む間もなかったよ。誰かさんのせいで♪」 と、キメ顔で指をさされ、化粧を落とす間もなくぐったりしたももちゃんが、氷点下の無表情になった瞬間だった。 「ももっ!」  お母さんが前にいたお父さんを押しのけ、ついでに、ももちゃんのベッドの前にいた看護師の前にグイッと体を割り込ませた。久子のこういう横暴な態度に、普段なら顔をしかめるところだが、この時ばかりはお母さんグッジョブと思った。  ももちゃんがこちらを見て、安心したようにわずかに笑った。  結局、ももちゃんは奇跡的に目立った外傷もなく、入院というほどではなかった。一通りの検査をしたら、その日のうちに退院してもいいということになった。  その後、むち打ちの治療を数か月続けていたが、軽自動車で10tトラックに後ろから追突されたことを思えば、奇跡の生還といっていい。昼には自宅でみんなで第一回目の放送を見たが、事故のショックが大きすぎて、みんなぼーっと観ていた。  ドキドキハラハラの一週目のトーナメントバトルは、見事勝ち上がった喜びは、ももちゃんが際どいところで生きていたというヒヤヒヤに、見事に相殺された。  その後、見事に優勝までこぎつけ、全二十話のレギュラーを獲得したものの、ももちゃんの追突事故ショックは、その喜びに浸る余裕を私たちから奪った。結局、その年の我が家の吉兆は、プラマイでいったら少しマイナスよりなのじゃないかと思う。 「生きててよかった!」 と、胸を撫で下ろす事態は、確かに幸運には違いないが、やっぱり普通じゃないと思う。うん。  まぁとにかく、日本にとっても我が家にとっても、激動の2011年だった。
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