祖母の愛した男

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祖母は、僕の顔を真っ直ぐに見て、嬉しそうに 『ひでとしさん!』と呼んだのだった。 あろう事か、僕の事を祖父だと勘違いしているようだった。 それからというもの、祖母は、若かりし頃の記憶と重ね、僕の事を 『ひでとしさん』と呼ぶようになった。 【祖母の時間は、若い頃に戻ってしまった。】 "彼女"の中には、もう"孫の僕"は存在していない。 1度、僕は『ひでとし』では無い。と伝えたことがあった。 祖母は…とても悲しい顔をして、 『ごめんなさいねぇ』 と謝った。 それから、僕は 祖母の愛した男になった。 祖母のひどく悲しんだ顔を見たくなかった。 幼い頃の僕に祖母が語ってくれていた、祖父の癖や話し方などを、僕が演じるようになった。 祖母はとても嬉しそうに笑うようになった。 僕はその顔が見たくて、また演じるのだった。 どんどん今の事がわからなくなっていく祖母。 昔の記憶は、覚えている。 祖父と暮らした日々を、生きている。 僕はただひたすら、嘘をつき続ける。 貴女が愛した男は、今もあなたと共に生きている、と。 そんな日々を数年続けた。 元々、高齢で持病のあった祖母は病に臥せり、入院生活を余儀なくされた。 それでも、僕は祖母の愛する『ひでとし』であり続けた。 そして… 祖母が最期の時を迎えた。 僕の顔を見て、かすれた小さな声で 『ありがとうねぇ。ときたか。ありがとうねぇ。』 そう言い、目を閉じた。 祖母の目から、一筋の涙が流れ落ちた。 安らかな寝顔の様だった。 僕は、涙を流しながら祖母の手を握る。 最期には、とうに忘れていたであろう 僕の名を呼び、ありがとうと告げた祖母。 それは、今、最期を看取った孫に対しての言葉なのか、それとも… 僕の嘘を知りつつも、受け入れ…いや。 もう、祖母の亡き後には、わからない。 認知症になった人の物忘れには、波があるらしい。希に、体調などにもよって一時的に記憶等がはっきりし、今まで分からなかったことが、急に分かったりすることがあるらしい。 …もしかしたら、優しい嘘に包まれていたのは、 僕だったのかもしれない。
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