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基睦も心配し力になってはくれましたが、その頃には他にも友と呼べる者も増え、日ごと転々と宿を提供してもらうようになりました。
その多くは女性の部屋で、伊織は彼女たちの温もりを求めるようになります。ですが彼も気づかないうちに、かすかに残る母親の記憶を守ろうとしていたのかもしれません。
中等部最後の日。春日部から決別するため、伊織は父親を訪ね邸に戻りました。
「今日までお世話になりました。これからはひとりで生きていきます」
執務室で書類に目を通す父親に、伊織は深く頭を下げてこれまで育ててくれた礼をしました。けれど父親は一度も顔を上げることなく、「そうか」とひと言小さく返すのみ。
この頃にはデイトレードで成果を出していた伊織の預金通帳は、八桁後半という数字になっていたのです。そして今も着々と数字は上下し、少しの操作でまた預金は増えつづけます。
いつの日かひとりで生きていこう、息の詰まる春日部と継母そして邸から逃れようと、独立のための資金を伊織は初等部の頃より貯めていたのです。
もちろん春日部の株も手許にあり、それは院長である父親も周知のことです。お金さえあれば生きていけると伊織の意思を認めた父親は、執務机の引き出しより鍵をだすと伊織に与えました。
それは父親が所有するマンションの鍵。いつか独立する日が来れば祝いとして与えようと、最上階のメゾネットを伊織のために残していたのです。
まだ父親として伊織の目を見ることのできた頃、笑顔を向けることのできた頃に手配をした祝い品ですが、皮肉にも親子の縁を断つために贈られることになりました。
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