僕にとっての世界

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 二度と会うことはない。父と子どちらともなく同じことを考えました。もう一度深く頭を下げた伊織は、最後に想いを父親にぶつけてみました。 「どうして僕を憎み、愛してはくれなかったのですか」  伊織の奥深くで棘のように刺さっていた疑問。ずっと悩みつづけていた答えは、けれど伊織の心に生涯消えることのない傷を残す残酷なものでした───  誰よりも詩音を愛していた青年は、血を分けた息子さえ男というだけで妬心を抱きます。ですが妻が存命中は穏やかな日々を過ごし、それも鳴りを潜めていました。  けれど妻が亡くなる直前に口にしたのは自身ではなく息子の名前。伊織とささやき冥府につく妻に裏切りを覚え、強い憎しみを抱かずにはいられなかったのです。  それでも嫌いになどなれるはずもなく、棺で眠る詩音の顔を撫でながらひと晩自問自答をくり返したのです。そして見つけた答えは簡単なものでした。  もとより脆弱な身体は伊織を身ごもったことにより更に弱り、休まなくてはいけない時期に伊織のお守で無理をさせて命を削る羽目になった。  いつも妻のそばで愛情をひとり占めしていた伊織を憎むことで、本来の正しい考えや事実さえねじ曲げこれ以上は自分の心が痛まないように逃げたのです。  それから伊織の顔は詩音と生き写しです。合わせ鏡ような妻と息子の顔が、どうしても青年は直視できなかったのです。そばに伊織がいるほど、彼の息づかいさえ青年を苦しめるのでした。  一部始終を話し終えた青年は、憑き物が取れたように最後は父親の顔に戻り伊織に視線を向けました。ですが我が子はもう背を向けドアに手をかけるところだったのです。 「──伊織」 「僕自体があなたを苦しめる存在だったのですね。もう会うこともありません。どうぞお身体に気をつけて」  父親が何を言いたかったのか、それを知る日は生涯訪れません。伊織は父親に背を向けたまま、今生の別れを口にして部屋を去りました。
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