僕にとっての世界

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 〇  詩音の父親は日本人で、フランス人の母親とのあいだに生まれました。  彼女の日本名は、ボードレールやエミリー・ディキンスンなど妻が窓際で誌を読むのが好きで、また福音のような美しい声の持ち主でもあったことから、娘にも同じようにあれと夫が名づけたそうです。  フランス名をイレーヌといいます。  母娘と詩音は合わせ鏡のように美貌を共有します。父親はふたりを溺愛し、南プロヴァンスの片隅で細やかながらも幸せに暮らしていました。  そんな詩音の許へ運命がやってきます。天の啓示を受けたかのように、その日の朝はやく詩音は家から三十分ほど先にある岬に向かいます。  海辺にはカトリック教会があり、扉を開くとそれは素晴らしいステンドグラスが目に留まります。女神セレナと大天使ファニエル、ユグドラシルの株元には鹿と虎が仲良く寄り添う慈愛に満ちたもの。  本のなかでしか行くことのできない異世界が、その教会には存在していたのです。祭壇に傅くと詩音は黙々と祈りを捧げ、両親の幸せと世界の平和を願います。  詩音しかいない静かな教会。そこへやってきたひとりの青年。当時ひとり旅行を楽しんでいた、未来の夫である春日部の跡取り息子でした。  彼は祭壇のまえで傅く詩音を天から舞い降りた天使だと思います。ふわりと広がる白いドレスが、まるで翼を休めるすがたに見えたのでしょう。  神聖なる雰囲気がただよい、青年は近づくことも声をかけることもできません。なす術もなく扉のそばで心ときめかせていると、彼の気配を背中に感じた詩音はふり返りました。  朝もやのなか光が差す扉のまえに立つ者を、薄暗がりの教会から眺めた詩音はステンドグラスより抜けだした虎だと思います。  それは一冊の神書”グランディー神話”に登場する虎の王。詩音がとても好きな本に登場する勇ましき獣王、ティグリスではないかと畏怖するのでした。  敬虔(けいけん)なるクリスチャンでもある詩音にとって、教会のステンドグラスにはめ込まれたモチーフと合致させてしまうのは自然なことだったのです。  そして青年もまた、自身を見つめる美しき者に目が離せません。後ろすがたも麗しく神々しいと思いましたが、彼女のおもてはそれ以上でした。  ひと目見るなり魅了された青年は、詩音に心を奪われ恋に落ちてしまうのでした。
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