はじまりは突然に

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 午前十一時三十七分。東京都国立市の上空は、五月晴れで澄みきっていた。路肩に停めた車の、開け放した窓から入ってくる風も心地いい。でも、気分はあまりよくなかった。  工業高校を卒業してから丸四年働いた電気工事の会社が、先月で廃業したのだ。それとほぼ同時に、彼女にもフラれた。ひどく打ちのめされて、尊敬する先輩に相談しに行った時に、「啓、気晴らしにデカい事をしないか」と話を持ちかけられたのが、そもそもの始まりだった。 「こらぁ! 星縞! 星縞央賀! 止まれーっ!」  啓都の耳に、いきなりその声が飛び込んできた。先輩に渡されていたB5サイズの紙に、咄嗟に目を走らせる。  用紙には、小学校低学年の児童の顔写真、星縞央賀という名前、体格、家族構成、それから、住所の欄には世田谷区とだけ書かれていた。  このタイミングで情報が入るなんて、すごい偶然だ。気は進まないけれど、せっかくの機会なので、一応はここへ来た目的を遂行しよう。  鈍る足を無理やり動かして、運転席を降りた。歩道側へ回り込む。後部座席のスライドドアを開けて、荷物の整理をしながら耳を澄ませる。 「止まれー! 星縞ぁ!」  星縞に静止を求める声が、どんどん近づいてくる。でもその姿は、赤茶色のレンガを積んだ高い塀に阻まれて、一切見えなかった。身長百七十センチ弱の自分では、背伸びをしても、飛び跳ねても、たかが知れている。 「止まれって言われて止まるバカがいるかよ!」  吐き捨てるような声が、やけに高い位置から聞こえた。すっかり声変わりを済ませた、若い男性の声だった。想像していた甲高いものと、全然違う。 「早まるなっ、星縞っ! 公道に出るんじゃない!」  啓都から十メートルも離れていない塀の上に、突然、制服姿の男性が現れた。 「じゃーな」  塀の内側に向かって言うと、彼は野生動物のように全身のバネを使って、すた、と静かに歩道に着地した。塀越しに「星縞ぁ!」という叫び声が聞こえてくる。  優雅な動きでゆっくりと立ち上がった彼が、探るように左右を見渡した。そして、堂々とした足取りで、こちらに向かってくる。慌てて目を逸らして、作業をしているふりをした。
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