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手探りで廊下を探り、妻の名を呼んだ。次第に慣れていく暗い家屋のなか、台所から何者かの足が投げだされていた。足音をひそめて柱の陰から台所をうかがう。テーブルに隠れて顔は確かめられなかったが、身につけている衣服には確かに覚えがあった。駆け寄って抱きかかえる。目を開けたまま絶命している妻を認めると、震えが全身を支配した。それは確かに登美子の成りをしていたが、秀一が知っている彼女ではなかった。硬く引きつった表情は見慣れた雰囲気を醸しだしてはいたが、生前のものとはまったく違っていた。頭に、葬式の際に見た母親の死に顔がよぎった。あのときの美しさなど微塵もない。恐れおののき、遺体を放りだしてあとずさった。立ちあがろうにもうまく力がはいらず、尻もちばかりついてしまう。混乱していた。どういう状況下にいるのか。何をするべきなのか。考えは何ひとつまとまらなかった。
――警察。
とっさに浮かんだ案にすがりつく。抜けた腰を奮いたたせ、それでも四つん這いでしか動けない。情けない自分に涙が零れだす。ぼやけていく視界のなか、ひたすら電話だけを求めた。
物音。まだ、屋内に誰かいる。反射的に強張る体に合わせ、息を殺して様子をうかがった。
――達也か。
いや、こんな時間に息子が家にいるわけがない。戸惑いも収まらないうちに、もう一度、物音がたった。秀一は背を壁に押しつけるようにしてゆっくりと立ちあがった。そのまま、壁を伝いながら、うしろ手に電話を探す。受話器はすぐに見つかった。手にとろうと試みるが、震える指ではうまい具合に掴めない。ようやく握った受話器も、電話機本体とぶつかって、硬いプラスチック音が細かに響く。
――頼む! 静かにしてくれぇ!
動悸が一段と早まった。深く息を吸いこむ。一向に落ち着こうとしない心を抑えつけ、再度、息を大きく吸う。もう一度。もう一度。もう一度……。腕の震えもそのままに受話器を耳にあてがおうとしたとき、居間の襖の陰に立ち尽くす人影に気づいた。
――達也?
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