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「あ、そうだ……」
くるりと身体の向きを変えて再び汐里の方を見た樹は、ズボンのポケットに右手を突っ込んだ。
取り出されたのは折り畳んだ小さな紙切れのようなもの。
樹はそれを彼女の手の平にぽんと載せた。
「これ、今日のお勘定。お支払いまだなんだ」
「今度でいいからね」と言ったあと、樹は改めて外に出ようと取っ手に手を伸ばした。
そして汐里の方を振り返り、手をひらひらさせて柔らかく微笑んで言った。
「じゃあな。おやすみ、しおりん」
バタンと静かに閉じられたドア。車の走り去る音。
汐里はしばらくの間、魂が抜けたように立ち尽くしていたが、ハッと我に返って鍵を掛けたあと、先ほどの樹の言葉を思い出した。
何度も何度も繰り返し心のスクリーンに映し出されている。
「……樹くん、私の名前を呼んでくれた!?」
胸に広がる喜び。桜のつぼみが咲き始めたように心がほぐれていく。
名前を呼んでもらっただけで、こんなにも震えるほど嬉しいものなのか。
じんわり込み上げるものがあり、スイッチが切れっ放しだった自分の感情が息を吹き返したかのようだった。
だがそれと同時に、手渡された未払いのお勘定とやらの気まずさが恥ずかしさに変わってきた。
兄はなんて格好悪いことをしてくれたのだろう。
酔い潰れたうえに家まで運んできてもらい、支払いすらせずに帰ってくるなんて。
汐里は握っていた紙切れを開いた。
バーの名前が印刷されたお勘定の用紙だ。
書かれている金額に卒倒しそうになりながらも気まずさに顔をしかめていると、手からもう一枚ひらりと紙切れが落ちたことに気が付いた。
どうやら二枚重なっていたらしい。
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