第二章 ますますあなたが好きになる

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第二章 ますますあなたが好きになる

 入学式から一ヶ月が過ぎようとしていた。新入学生の新鮮な気分は次第に落ち着き、慣れを見せ始める時期だった。また、履修登録も終わりを迎え、本格的な勉学の時間が訪れていた。  僕は、相変わらず孤独なままの学校生活を送っている。中には、僕と同じように、友達を作らず、単独で行動している人もいたが、それでも僕は、その人達に声をかける気が起きなかった。  入学後、一ヶ月も経つと、人間関係は固定化されていた。会話を交わす者、交わさない者、誰かと必ず行動を共にする者、単独行動が当たり前の者。  それに対し、今更変化をもたらすのに抵抗があった。入学式の時よりも新しい仲間を作ることに、ハードルが上がっている気がするのだ。  そのため、僕は相手が一人だろうと、アクションを起こすことがなかった。  しかし、それでも良かった。  僕の頭の中は、千尋のことで占領されていたからだ。  僕は完全に千尋に恋をしていた。あの日、桜の木の下で、千尋を見た瞬間から、これまで体験したことのない、恋の海へと落ちたのだ。その海は、ハチミツのように甘く、薔薇のように美しい深紅に染まった深い海だった。沈んでいるだけで、とても切なく、狂おしい恋慕の想いに満たされた。  僕は千尋と一緒に過ごしたかった。だから、僕にとって、精一杯のアプローチを行った。講義があると、出来るだけ千尋から近い席に座った。食堂でも、千尋が向かうタイミングに合わせた。帰宅時も、千尋が帰る時間帯を把握し、同じ時間に帰るようにした。  それでも千尋は振り向いてくれなかった。なぜだろう? 原因はわかっていた。  アズミの存在だった。事あるごとに、アズミは僕を爪弾きにした。僕が千尋に恋をしていることを知ってか知らずか、徹底的に千尋を僕から遠ざけようとした。  そのせいで、千尋の履修登録の内容がわからなかった。僕は困惑した。千尋が作った履修に合わせて、登録するつもりだったからだ。  そこで、僕は可能な限りの努力を行い、情報をかき集めた。本来なら、僕と絡むことすらない、対極の性質であろう、明るいグループにも声をかけた。彼女らの、どこか僕を蔑んだような視線を受けながら、僕はそれと悟られないよう、千尋の情報を聞き出した。  その労力の甲斐があり、千尋と出来うる限り、受ける講義が重なるようになった。  桜は散り終わり、春も過ぎようとする時期だったが、僕にようやく、春が訪れそうな予感がした。    五月に入り、気温も随分と上がってきた。  僕は網場地区の海岸沿いを、大学へ向かって歩く。  ここから見える海では、帆を張ったディンギーが、朝日を背に、波の間を悠々と進んでいた。海上に並んだブイが浮いているが、これは漁業のものではなく、レース用に設置されたものである。ディンギーはその間を進むのだ。  僕は、巨大なサメのように、波を切り裂きながら走るディンギーの姿を眺めながら、千尋の顔を思い浮かべた。  今日は一限目からの講義だった。必修科目なので、千尋は必ずくるはずだ。ここで注意をしなければいけないのは、千尋よりも先に席へ着かないことだ。もしも、千尋よりも先に席へ着いてしまえば、その後やってきた千尋に合わせて、席の移動を余儀なくされてしまう。  そうなると、極めて不自然だった。僕の意図が、他者に悟られてしまう危険性がある。  僕は現状、孤立しているも同然なので、一度敵を作ってしまえば、たちまち窮地に追いやられる恐れがあった。それ自体は構わないが、そういった立場に陥れば、千尋と一緒になる機会が、大きく減ってしまうことを意味していた。  それは避けなければならない。  大学へ到着した僕は、図書室へと入った。千尋が登校してくるタイミングは把握しているので、ここで時間を潰すつもりだった。  僕は左手首を返し、腕時計を見る。  千尋が登校してくるまで、後十分ほどあった。  僕は、手持ち無沙汰に、本棚に並べられている書籍に目を通した。  フィクション小説や、文庫本が多い高校の図書室とは違い、大学は実用書が豊富に揃えられていた。  それらは、興味がない者には無用の長物であるため、背表紙を確認するだけで、後はスルーをした。  僕の目が、一冊の本へと止まった。見覚えがあるタイトルだった。  シェークスピアのオセロー。  確かこの本を読んだのは、中学生くらいの時だ。難解で、ただの小難しい小説のように感じた。それに、読んだのも結構前になるため、うろ覚えだったが、何となくは記憶している。  デズデモーナという美しい女性が登場したはずだ。夫オセローを愛していたにもかかわらず、イアーゴの姦計により、嫉妬に狂った夫から、殺される不運な女性だ。  シェークスピアの小説には、嫉妬や思い込みで、妻や恋人を殺す作品が多いが、ルネサンス期の男達は皆そうだったのだろうか?  僕は、プールポワンを身に付けた髭面の男達が、こぞって女を追い回し、ツバァイヘンダーで首を撥ねる光景を思い浮かべた。辺りは、トマティーナを行ったかのように、血に染まっている。その中で、誤解を解いた男達が、妻や恋人の亡骸にすがり付くのだ。  僕は、あまりの滑稽なその光景に、思わずクスリと笑った。  その後僕は、しばらく本を眺めて過ごし、千尋が教室へ入る時間が迫ると、図書室を出た。    その日も、千尋を一日眺めて過ごす日だった。千尋は相変わらず、天使のような笑顔を辺りに振り撒き、輝かしい温もりを皆へ与えていた。  僕は心が洗われるのを覚えながら、千尋の黄金のような姿を目に焼き付け続けた。  帰宅時間になった。学生達は三々五々、最後の講義があった教室を出て行く。帰宅する者、サークルに参加する者、バイトがある者。  僕は何も予定がないため、帰宅するだけだが、そのつもりはない。  千尋は今日は、友達と一緒にどこかに寄って帰るつもりのようだ。教室の入り口で、アズミを含めた四名ほどが固まって、楽しそうに予定を立てている。  僕は、帰宅の片付けをする振りをしながら、その様子を伺っていた。  やがて、姦しく談笑をしながら、千尋達は教室を出て行く。  僕は席を立ち、後を追う。  千尋達は、門を通り抜け、大学へ続いている坂を下りきった。そして、県道へと出る。近くに停留所があるが、そこへは向かわず、逆方向へ歩き出す。  おそらく、県道沿いにあるファミリーレストランへ寄るつもりなのだろう。僕はそう予想した。  千尋達から適切な距離を保ちつつ、尾行する。千尋達は、お喋りに夢中で、背後など気にも留めていなかった。  五分程歩き、僕の予想が的中していたことが証明された。  千尋達は、ファミリーレストランの中へ入って行った。ここは僕も何度か利用したことがあるため、内部の間取りは把握している。  千尋達が中に入ってから、少し間を置き、僕も続く。  店内に入った僕は、素早く周囲を見渡した。 そして、千尋達が座った場所を確認する。  千尋達は、一番奥の、窓際の席を陣取っていた。  僕は、案内に来た店員を適当にあしらい、千尋達の近くの席に座る。座るが、直視される位置には当然座らない。仕切り越しに、死角となる席を選んだ。その上、千尋達から背を向ける形にした。そのため、わざわざ回り込まれない限り、ここに座っているのが僕だとわからないはずだ。  僕は、上部が曇りガラスになった仕切りを通して、背後に神経を集中させた。死角とはいえ、直近なので、声は良く聞こえる。幸い今は、夕食時よりも早い中途半端な時間帯であるため、他の客は少なく、千尋達の声が喧騒にかき消される心配はなかった。  千尋達はドリンクバーだけを頼んでいた。  僕の元にも店員がやってきたが、今は飲食物が喉を通らない。しかし、何も頼まないのは怪しまれるので、僕もドリンクバーだけを注文する。懐に余裕がないので、少し痛い。  店員が去ったのを見計らい、再び、千尋達の会話に意識を集中させた。  どうやら、千尋達は、男子学生の話をしているようだ。同じ新入生の誰彼が格好良いだとか、先輩から口説かれたといった、いわゆる『恋愛トーク』に花を咲かせていた。  この会話の内容で、僕は、千尋の発する言葉が気掛かりになった。もしも、千尋の口から、気になる男子学生の名前でも飛び出したら、僕はショックを受けるだろう。アズミはもう意中のイケメンに目をつけていたが、千尋にはそんな感情を抱いて欲しくない。千尋は、煩悩とは無縁の、気高き薔薇なのだから。  しばらくの間、千尋達の会話を聞き続けていたが、幸い、千尋は、僕が危惧した言葉は発せず、もっぱら相槌を打つ側となっていた。  やがて、別の話題へと移り変わった。アズミは実家から持ってきた、銅鍋での料理にはまっているらしい。料理とは言っても、大学の生協で販売している惣菜セットを買って帰り、家で焼いているだけのようだ。そう言えば、アズミは、その日の最後のコマなどで、惣菜の入った袋を提げて、講義を受けることがあった。学生生協が販売している惣菜セットは、人気が高く、よく売り切れる。そうなる前に購入しているのだ。そのような生徒も少なくなく、アズミもその一人のようだ。  見た目に相応しく。アズミは料理もろくにできないらしい。それでも、男からの評価が下がらないのは、見る目がない輩が多い証拠だろう。  反面、千尋は手抜きなどせず、立派に手料理を行っているようだ。最近は、ハンバーグに凝っているらしく、今日の夕飯は、煮込みハンバーグにすると話していた。千尋らしく、女性的で可愛い趣味だと思う。  その後も、千尋達は、他愛のない会話を続けた。やがて、時間がきて、席を立つ。  千尋達がレジで清算するのを待った後、僕も急いでレジへ向かう。  お金を払っている最中、ふと、ドリンクバーを注文したのに、一杯すら飲んでいないことに気が付く。勿体ないが、これも恋愛の一貫だ。気にしないようにしよう。    その後、千尋達は、解散し、各々の家路に着いた。千尋の住むワンルームのアパートは、僕のアパートよりも大学に近く、日見町にあった。およそ、五分ほどで大学に行ける距離だ。  僕は、一人になった千尋を家まで見送った後、自らも家路へ着く。途中、スーパーマーケットで、夕食の食材を購入した。そして、僕の住むアパートを目指す。  時刻は夕方に差しかかり、帰宅する高校生や、スーツ姿の会社員が多く目に付いた。  僕のアパートがある、田中町の海岸通りへ出ると、橘湾へと沈み行く、燃えるような夕日が全身を包む。  僕は、ここから見える夕日が好きだった。夕日は、昼の情熱を携えたまま、夜の帳を迎えるのだ。ヘーメラとニュクスの交代の瞬間だが、ヘーメラが地下の館に帰ろうと、その情熱は消えることはない。  アパートに辿り着いた僕は、夕食の準備に取り掛かった。今日は野菜炒めと、椎茸の炊き込みご飯にする。炊き込みご飯は、一見、難しそうに感じるが、意外にも、とてもお手軽なメニューだ。これは、一人暮らしを始めて発見したことだった。  一通り食事の準備を整え、窓の外を見る。すでに日は落ち、暗闇に覆われていた。僕はカーテンを閉め、食事に移る。  野菜炒めと炊き込みご飯は、自分なりに上出来だった。特に炊き込みご飯は格別で、椎茸に醤油の下味処理を行っていたお陰で、はっきりとした深い味が再現できた。これを千尋に食べさせてあげることが出来れば、きっと喜んでくれるだろうと夢想する。  食事を終え、食器類を片付けた僕は、机の引き出しからシステム手帳を取り出した。そして、テレビ番組をBGM代わりにしながら、その手帳を開く。  今月のカレンダーのページを見る。シンプルな作りのリフィルに、今月のスケジュールが記入してあった。だが、これは僕のものではない。僕が把握している千尋のスケジュールだ。それぞれの日付に、それなりに綿密に書き込みがしてある。とても苦労して、収集した千尋の予定だ。  それを眺めていると、あることに気が付く。そろそろ、千尋の生理が始まる頃だ。  僕は、後半のページにある、メモ用のリフィルを開いた。そこに千尋が使用している生理用ナプキンの種類やメーカー名が書かれてあった。  千尋が使用しているナプキンは、スリム型の羽なしナプキン。コンパクトなので携帯しやすく、羽なしなのに、ズレない優れたナプキンだ。夜用は、吸収率が高いものを選んでいる。千尋はタンポンを一切使わないスタイルのようだ。  僕は、再びカレンダーのページを開き、記入された千尋の生理周期を確認する。間違いがあってはいけないからだ。  五日後くらいには、生理が始まりそうだ。だから、明後日までには、ナプキンをプレゼントしようと思う。もちろん、直接には渡せないが。  僕は立ち上がり、洗面台へ向かう。そして、洗面台下部にある収納棚を開け、そこに置いてある、生理用ナプキンのパッケージを取り出した。そして、予め用意していた、可愛らしいギフト用の手提げ袋に収める。  そして、忘れないように、その袋を玄関に置いて、準備を終えた。  これでよし。  僕は、一通りの確認を終えたので、システム手帳を机の中に戻す。このシステム手帳は、千尋のために買ったものだ。それなりに値が張ったが、好きな人のためだ。少しも後悔はない。  ちなみに僕自身の『予定』は、机の横に貼ってある小型のカレンダーに記入してある。このカレンダーは、このアパートを契約した時に貰った無料のものだ。僕自身はそれで充分だった。  僕はその後、シャワーを浴び、ゆっくりとテレビを観てから、ベッドに入った。そして、よくそうしているように、千尋の顔を思い浮かべながら、マスターベーションを行った後、眠りに着いた。
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