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11.犬と記憶
翌日、木曜の朝になっても小犬丸は帰ってこなかった。
帰ってこなかった、とはこの場合一見おかしな表現だが、甲斐にとってはそうとしかいいようがないのだ。ただ小犬丸という名前の犬はこれまで同様そこにいるのがすこしややこしい。早朝はいつものように甲斐を舐めて起こし、散歩や餌をねだり、三和土で靴を噛み(以前おもちゃ用に甲斐は一足を犠牲にした)名前を呼べばこちらをみてしっぽを振り、クンクン鳴く。リードをつけようとすると手を舐める。見た目はもちろん小犬丸そのままで、それはそれは文句なく可愛い。
それでもやはり今の甲斐には別犬としか思えなかった。単に小犬丸が甲斐に話しかけてこないというだけではない。何かがちがうのである。大袈裟にいえば、存在の気配がまったく異なる、という感じだろうか。しかし甲斐が多少がっかりしたことに、他のイヌメリ社員には小犬丸の異変はわからないようだった。毎朝小犬丸に声をかけ、休憩時間になるとモフりにやってくる常連も何も気づかなかったようだ。たしかに外見は変わりがないのだ。健康で、毛並みもつやつやして、元気も愛想もいい。
午後の社内巡回のあいだも小犬丸はいつもの通り行く先々で愛でられていた。社員たちは誰も彼の変化に言及せず、それどころか「いつも通り可愛い」という者もいるくらいで、甲斐はだんだん苛々してきたが、ぐっとこらえて巡回を完了した。
話し相手がいないせいで、その日の甲斐は小犬丸だけでなく社員やオフィスの様子をいつもより真剣に観察することになってしまった。すこし前に小犬丸が「緊張している」と評した澤田は今日は明るい表情になっていたし、寝不足だといわれた資料課の課長は有給休暇を取っていた。いつも冷静な表情しかみせないやり手の営業が、足元へ来た小犬丸を撫でながらため息をついたり、有名アイドルグループのファンを公言している女性課長が眉をひそめているのも記憶にとどめた。ひとびとはこの犬に心を許し、人間にはけっしてみせない顔をみせるのだ。
でも、ここにあの小犬丸はいない。
翌日の金曜日も事態は変わらなかった。どれだけ話しかけても小犬丸はふつうの犬以上の行いにおよぶことはなかった。甲斐は意気消沈し、リードを握って通勤するあいだも、小犬丸と最後に話した水曜の夜のことを何度も思い返していた。甲斐を見返す小犬丸の瞳には時折、元の彼が戻ってきたかに思える一瞬があるのだが、それは毎回、甲斐の思いこみか妄想らしく、あらためて見返すと何も変わっていないのだった。
いや、そもそも何がどこまで妄想だったのだろうか?
小犬丸というペットでなごんでいる社内の雰囲気を落としたくなくて、社内では甲斐は何事もないかのようにふるまったが、気分は激しく上下し、ひどく消耗した。
事態がいくらか展開したのは、午後の巡回が終わり、小犬丸と息抜き部屋へ戻った時である。秋田会長が丸椅子にちんまりと腰をおろし、甲斐を待っていたのだ。
「甲斐君。いったい何があったのかね?」
小犬丸は秋田に向かって喜びの吠え声をあげ、甲斐を離れて飛びついていった。甲斐はぼんやりと立ちつくした。すぐそこに小犬丸はいるのに、ひどく寂しい気持ちだった。
「……会長」
「こいさんはどこへいった?」
「会長には……わかりますか……?」
何があったのかを話しなさい。
秋田に穏やかにそう促されても、また、いくら「小犬丸」の秘密をそれなりに知っている(はずの)秋田であっても、甲斐はすべてをあからさまに話すことはできなかった。
しかし息抜き部屋の奥に座り、犬を撫でながらぽつぽつと話しはじめ、病院へ行けといわれるのを覚悟しながら小犬丸が自分の前に「人の姿をとって」あらわれた、と告白したとたん、秋田は大きく相好を崩して手を打った。
「そうかそうか。やはりな。甲斐君ならやると思っていた」
「どういうことですか?」
「彼が顕現することはめったにない。イヌメリでは初代の明智小五郎が、創業者の土佐と補佐の越野の前でのみ、人に姿を変えたという」
「彼……?」
「われらと共に歩むもの、そしてわれらを歩かせるもの」
秋田は朗誦するようにいった。
「土佐はそう書き残している。彼はヒトと共に生きる神だと。もうきみにあれを見せてもいいのだな。桜姫のときも、吉野君が右腕になってからだいたい一年後だったというから、そういうころあいなんだろう。当時の私は社長ではなかったので、記録で読んだだけだがね」
秋田は甲斐を促して立たせると、先導してエレベーターに乗った。
「イヌメリに会長などという役職が残っているのは理由がある。甲斐君は知らないだろうが、会長職は常時置かれているわけではない。彼の代替わりの後で社長が変わったときだけ、前社長が残ることになっているんだが、それは――ああ、ちょうどよかった」
話の途中でエレベーターが開いた。扉の前に寺本が立っていた。甲斐を認めてはっと眼をみはる。甲斐はこわばった表情で軽く会釈したが、秋田は気にした様子もなく明朗な声で続けた。
「寺本君、いいタイミングだ。この後すこし話があるから、一時間後に下でどうかね?」
あっけにとられたような顔で寺本がうなずくと、秋田は「甲斐君、こっちだ」と廊下の奥をさした。
会長の部屋は社長の執務室よりさらに狭かった。壁じゅうを木製のキャビネットに覆われた部屋は役員室というよりも資料庫のようだ。デスクはきれいに片付いている。甲斐をデスクの前の椅子に座らせると、秋田はデスクの背後にひざまずき、隠れたところにある黒褐色の木の扉をあけた。
「桜姫と吉野君、彼女たちは――」
秋田は先代のペット犬とその右腕の女性の名前を呼びながら、ダイヤル式の古めかしい金庫から、蒔絵が施された手箱を取り出す。
「ふたりはいつも明け方の夢で話をしていたらしい。吉野君がいうには、夢の中の桜姫は二回だけ、名前にふさわしい美女の姿だったと。年の離れた姉に再会した気分だといっていたよ。吉野君もきれいな女性だったから、私も美女同士、並んでいるのが見たかったと冗談をいったものだった」
甲斐は気を抜かれたような顔で秋田の顔とデスクの手箱を交互にみつめた。きらびやかな蒔絵の蓋の下からあらわれたのは何冊もの小さな黒革の手帖と木製のフォトフレームだった。
「十年前、私を社長に選んだのは桜姫だった。前の社長の日高と一年で交代となったんだが、日高を選んだのが間違いだったと桜姫はいって、私を選び直したんだ。日高は桜姫の報告を聞かなかったし、吉野君ともうまくいかず、他の役員の支持も得られないまま孤立していた。日高はどうしても、桜姫という存在を現実として受け入れられなかったんだ。あとで私が社長に就任する直前のイヌメリの業績を見直してみなさい。犬と右腕と社長、この組み合わせがうまくいかないと、わが社はどうもぱっとしない。実は私は社長に選ばれる前から、何度か桜姫の声を聞いていた。だから受け入れるのが楽だったのかもしれない。」
「現実――ですか」
小さな山のように積まれた手帖をみつめ、甲斐はつぶやく。
「会長は……小犬丸とも話をしますか?」
秋田は平然と「週の初めに会った時、挨拶をした」といった。「しかし今朝来たら、彼はいなくなっているじゃないか。何というのかな、今風の言葉で……そう、中の人だ」
「そうですね」甲斐は力なく笑った。「中の人などいない――そんなことはなかった。いたのに……僕が……」
「とにかく落ちつきなさい」
秋田はフォトフレームの足を立てた。古い白黒写真がおさめられていた。タイトスカートの足を組んだ女性が足元に座った大型犬を撫で、その横にスーツの男が立っている。女性の視線はややきつく、カメラをにらむようだった。
「彼がみずから消えたのならその理由があるはずだ。だが彼は自分で選んだ右腕を見捨てることはない」
「でも…」
「もっとも私は桜姫ほど、小犬丸と親しくはないが。桜姫の寿命が来たころから、社長としてはそろそろ交代の時期だと察していたし、小犬丸が来てからも右腕がしばらく不在だったからね。甲斐君。小犬丸がきみをみつけるまで、大変だったんだよ。……『右腕を見い出せない神はこの現実に居場所を持ち得ない。歩きつづける意思を持たない右腕は、この現実ですることがない』」
またも朗誦するような秋田の言葉に甲斐は眉をひそめた。
「それは?」
「土佐が書き残した言葉だ。この部屋の鍵を渡そう。これからきみは好きなときに入ってこれを読むといい。右腕と右腕に許可を与えられた社長の特権だ。この部屋はまるで資料室のようだと思わなかったかね?」
図星をさされて甲斐はひるんだが、秋田はおだやかに微笑んだだけだ。
「実際、そうなんだよ。会長という役割はこの部屋の番人のようなものだ。創業者の土佐の前にあらわれた彼は、明智小五郎と名付けられた土佐の犬――のなかで生きていた。そのころ『右腕』という役職はイヌメリにはなかったが、実質的にその役割を果たしていたのは、のちに土佐の妻となった越野だ。犬と右腕とトップが強く結びつき協力すると、その集団や組織は繁栄する。面白いのは、繁栄のためには右腕ひとりでは足りないということかな。犬は人がいなければ何もしない。人は犬といるだけでは何者にもならない」
話しながら黒革の手帖の一冊を秋田はめくった。ページは細かい文字でびっしりと埋められている。と、あいだに挟まっていた薄い紙がはらりと落ちた。秋田はさっと拾い上げ、甲斐はそこにちらりと見慣れた「メリーさん」のイラストを目撃した。
「土佐は彼がいつから存在していたのか、過去の事例を調べている。調べた者はのちの右腕にもいるし、直接彼から聞いた記録もこの部屋にある。どうやら彼の痕跡は、戦前も、その前も――古くは江戸の生類憐れみの令の時代にもあるらしい。だからといって、犬の姿で生まれ変わった彼がそれを自分自身の経験として憶えているかといえば、ちがうがね」
「それは……小犬丸に以前聞きました。万華鏡で見るように、以前の犬たちの記憶が見えるのだと」
「ああ。犬はいつも現在に生きているからな」
秋田は甲斐の眼をみつめて静かにいった。甲斐はふと、これから訪れる何かへの覚悟をうながされているように感じた。
「犬の現実はいつも現在にある。だから神は犬に宿るのかもしれない。神は過ぎた時を把握し、人は未来の夢をみる」
「秋田会長。小犬丸は――戻ってくるんでしょうか。彼が――神がいなくなったイヌメリは、どうなるんでしょうか?」
「わからないが……良い結果とは考えにくいな」
秋田は手遊びをするように手帖を開けては閉じた。
「ひょっとしたら小犬丸は、自分が姿を消しているあいだに、人間がなすべきことがあると思ったのかもしれない。犬は人よりずっと早く逝く。小犬丸だってそうだ。人の生の多くを共に歩くことができるが、いささかせっかちなのは否めんだろう」
「せっかち?」
「ああ。甲斐君はそう思わなかったかね?」
いわれてみるとたしかにそう思わなくもなかった。甲斐の心が納得するのを後回しにして、小犬丸はひたすら甲斐を先へ進ませようとしていた気がする。そして今となっては小犬丸がいないと自分は寂しくてたまらないし、イヌメリにとってもまずい。でも……
「僕に何かできることはあるんでしょうか?」
「寺本君に相談はしたのかね」
甲斐は答えに詰まった。水曜のあの一件のあとでは寺本と目を合わせるだけでもひと苦労なのだ。
「あの、寺本社長は――理解しているのでしょうか? 小犬丸について……」
秋田はうつむきがちの甲斐の顔をしげしげと眺めた。
「なるほど、そこからか。しかしきみを選んだ小犬丸のことだ。寺本君についても間違ってはいないだろう。心配しなさんな」
木曜の朝、寺本が異変を直感したのは、なによりも甲斐の様子についてである。
朝から彼と話をしたわけではない。寺本としては前日の出来事もあったので、特に顔を合わせる予定もないのをありがたいと思っていたくらいである。
実は水曜の夜マンションに帰り、ヨガのシークエンスで心を落ち着けた後、寺本は甲斐に対する自分の反応をひとつひとつじっくり検討したのだ。そして今朝はもう、自分が甲斐に対して抱く感情について、ある結論に達していた。
もっとも結論が出たからといって、特に新しいことをするつもりはなかった。寺本としては「これまで通り」の方針を取る予定だった。何しろこれは自分の個人的な感情(に加えて身体)の問題なのであり、時に大胆な改革や攻めの姿勢が必要とされる会社経営ではないのである。おまけに甲斐はその会社の一員なのだ。公私混同などもってのほかだ。
というわけで、肌触りも爽やかな高機能素材のワイシャツに身を包み、次第に増してくる蒸し暑さにも負けずに出勤したのだが、執務室へ向かう途中たまたま(本当にたまたま、なのである)小犬丸を連れた甲斐がコンフォートルームに入っていくのを目撃したのだ。ちらっとのぞくとコンフォートルームには始業前の常連がいて、遠目にみえた甲斐はこちらに背を向けていたが、寺本はおやっと思った。猫背気味のうしろ姿の肩がおち、妙に暗い雰囲気が漂っているのだ。
昨日の自分の対応をひきずっているのだとしたら――と寺本は考えながら小犬丸に眼をやって、今度はあれ、と思った。
何かがおかしいのである。
寺本は頭を振った。視界がぶれた。ふたたび小犬丸に眼をやってやはり変だ、と思った。
そしてふいに理解した。
小犬丸が寺本を見ていないのだ。
そういえば、と寺本は思い出した。小犬丸が近くにいるとき、いつも奇妙な圧迫感を感じていたのは、この犬が寺本を見ていた――みつめていたせいなのだ。そして寺本もそのたびに小犬丸をみつめかえしては、瞳のなかにある彼の意思を受け取っていたのではなかったか。
しかし、と寺本はまた首を振った。これはもしかしたら飼い主、つまり犬の右腕である甲斐の不調が反映されているだけかもしれない。ともかく様子をみようと考え直し、その場を離れた。
しかし金曜日になっても、同じように朝のコンフォートルームでみかけた甲斐の雰囲気は暗いままだったし、小犬丸はというと、寺本がこれまでイヌメリのペット犬に感じたことがないくらい「ただの犬」だった。ただの、などというのは世間一般の犬に対して失礼な表現かもしれないと寺本は胸のうちで留保をつけたが、それでもやはり、小犬丸は水曜までの犬とはちがう存在だとしか思えなかった。
やはり変だった。いくら飼い主の調子が悪いからって、こんなに変わるものだろうか?
甲斐に声をかけてみようかとも思ったが、こんなときに限って口実がないのである。水曜の記憶はまだ新しすぎる。おまけにこんなときに限って外出する用事もなく、緊急の要件もなく、寺本は執務室の椅子を立ったり座ったりしているのだった。一度はコンフォートルームに行ったが小犬丸の姿もなく、寺本は窓際で深呼吸をして執務室へ戻った。しばらくしてまた部屋を出てエレベーターを待ったが、扉が開いたときに甲斐と秋田会長にばったり出くわしたのである。
まるでマンガのような擬音が寺本の脳内に響いた(ような気がした)。甲斐を見た、まさにその一瞬のことだ。甲斐がちいさく会釈するのはわかったが、寺本は硬直したようになって、ヨガで得たはずの柔軟な動きも忘れたような気持ちになった。
そんな彼を救ったのは「ああ、ちょうどよかった」などとのんびりした声をあげた秋田会長である。
「寺本君、いいタイミングだ。この後すこし話があるから……」
会長に了解の生返事を返して、寺本はよろよろと執務室へ戻った。昨夜の自己分析の結果はここでも明らかだ――と、寺本はもう一度確認した。それともこれはもはや、病に例えられるべきものかもしれない。古今東西でそんな風にいわれていたのではなかったか。
寺本の脳裏にマンガの吹き出しのような文字が躍った。
症状:恋愛。進行度:強い肉体的欲求。
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