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12.犬と敬意
石段を登る。
寺本紀州が足を踏みおろすたびに踵が小気味よい音を響かせる。片手に下げた手土産の紙袋がスラックスに当たってカサカサと鳴る。登りきったところに目指す社宅はある。斜め下に海岸沿いの道路と丘と住宅の列があり、その向こうに水平線が見える。
紙袋の中身は駅前の商店街で入手したチーズケーキである。TVや雑誌でよく紹介される人気パティスリー本店の期間限定品であり、従ってここへ来る前に奥様やお嬢様方の行列に混ざって買ったのである。やりすぎかもしれないといくらか危惧したが、これは「見舞い」だからな、と寺本は自分にいいきかせた。甲斐がコンフォートルームで同僚と菓子を食べているのは何度も目撃したので、甘いものは問題ないと信じたい。
そう、これは見舞いだ。
会長の秋田と話した内容を思い起こしながら寺本はまた自分に強調する。だから緊張することはないのだ。社長に就任して数か月、毎週レポートを受け取るだけでなく、専属広報として働いてきた部下なのだから、調子が悪そうな彼を見舞いに行くのも当然だろう。
もっとも寺本がここまで来れたのは、秋田が背中を押したせいでもある。金曜の夜、コンフォートルームのビーズクッションに沈みながら、彼はこんなことをいった。
「寺本君。きみもこの会社が世間に類をみないことにいいかげん慣れただろう?」
「ええ――はい?」
「犬という生き物は昔から人間のために働き、人間の使いやすいように作り変えられてきた。もっともこれは人間の側の理屈で、犬は逆に人間を作り変えてきたのかもしれない。生活空間を同じくし、共に生きていけるような存在にね。しかしいくら犬と人間にそんな関係があっても、人事を任せるのはイヌメリくらいだ。要は敬意の問題でね」
「はあ。敬意……ですか」
「われわれと共に歩むものへの敬意だ」
話の行き先がみえないまま、寺本はいささか困惑したが、犬に言及されたおかげで昨日以来の小犬丸と甲斐の異変を思い出した。
「そういえば小犬丸は……何かあったのでしょうか」
「何だね?」
「私を見なかったのです。いつもならその……意味ありげに私を見るのですが」
ひょっとすると自分は少し変なことをいっているかもしれない。言葉を発した直後に寺本はひやりとしたが、秋田は妙な顔をするどころかむしろ嬉しそうに眉をあげた。
「そうだな。小犬丸は……不調らしい。右腕の甲斐君が非常に心配している」
「ええ、彼も調子が悪そうです」
「犬と人は補完しあわなければならん。犬の右腕は社長の片腕にもなりうる。創業者の土佐は事実上の右腕だった越野と結婚した。先代の右腕、吉野君と私もいまだに良い友人同士だ。大事なのは相手を敬う気持ちだな」
前任社長で現会長の秋田の経営手腕を寺本は尊敬していた。しかし秋田はときどき、寺本には意味も意図もわからないことを話す。
人は意味のわからないことをいわれると、自分にとって意味が通るように勝手に解釈するものである。ことに行動指針を必要としている場合は。というわけで寺本は動揺を隠してうなずき、秋田の話を解釈しようとした。先代のペット犬、桜姫の右腕だった吉野は桜姫の没後イヌメリを定年退職している。だが秋田は自分が甲斐に抱いているような、よこしまな感情について話しているわけではあるまい。
秋田は寺本の表情をみつめて、ふと何事か思い出したようだった。
「そういえばきみも面接のときにあの歌の話をしたな」
「なんですか?」
「三次面接のときだ。社名から何を連想するか聞いただろう。きみは下の句だけを答えたから、覚えているんだ」
「下の句?」
「百人一首だよ」秋田は眼を細めて笑った。
「あはれ今年の秋もいぬめり。甲斐君はすべて答えた上に意味までちゃんと把握していた。きみはちがったな」
「……かるた取りでは上の句は覚えずに、瞬発力で勝負する方でしたから」
「ふむ、たしかに瞬発力は重要だ。往々にして決定打になる」
秋田は寺本が「小犬丸レポート」をきちんと読んでいるかを確認すると、甲斐と小犬丸を気遣えと念押しして帰っていった。
きっと会長は、この会社では社長が犬とその右腕と協調することでいろいろうまくいくと再確認させたかったのだろう。そう寺本は思った。これは自分が甲斐に抱いている感情とは別の話だ。
しかし――だとすれば私はこれから甲斐とどう接していけばいいのだろう? 寺本は自分が滑稽にみえることは承知していた。三十代も後半になってこんな悩みを持つなんて、誰が思うだろうか。それに――たとえ甲斐が自分と同じ性向の持ち主だとしても、すでに相手がいる者に、これまでろくに恋人もおらず、今となっては童貞も同然の自分が何をできるとでも?
――等々と考えた末、寺本が出した結論が、翌日の土曜に社宅へ「見舞い」に行く、ということだったのである。
甲斐が小犬丸と住む一軒家は石段を登りつめたすぐ先にあり、低い植木に沿って敷石が玄関へ続いている。
引き戸の前に立って寺本はもう一度ためらった。ここから庭先は見えないし物音は聞こえない。インターホンに指をかけ、ふと甲斐は留守かもしれないと思った。なにしろアポなし訪問なのだ。いつもなら他人を訪ねるだけのことにこれほど迷ったりしないのに、と自嘲気味に考える。
そのとき引き戸の向こうで物音が聞こえた。
大きなものが倒れるような、外まで響くほどの音だ。それに叫び声のようにも聞こえる声も。
寺本はあわててインターホンのボタンを押した。焦った指は三度続けて鳴らしてしまった。
ピンポンピンポンピンポン!
引き戸の向こうからドタドタドタ……と走るような音が聞こえる。
寺本は反射的に把手に手をかけた。意外なことに戸はすべるようにそのまま開いた。
「こいさん! ダメだって……」
足元を毛のかたまりがすり抜けようとするのを感じた。寺本はヨガで鍛えた柔軟性で体をねじり、しゃがみ、その温かい胴体を両手でつかまえた。紙袋がドサッと地面に落ちる。
「ワン!」
「寺本社長!」
小犬丸が吠えるのと同時に、甲斐が驚きの声をあげた。
「社長、わざわざ――ご心配をおかけしてすみません」
「いや、私こそ、その……気を遣わせたら申し訳ない」
「そんなことはないです。嬉しいです。ほんとにすみません」
「そんな風にいわれるとますます申し訳ない」
いったい私たちは何を謝りあっているのか。
古い木造家屋特有の匂いがする茶の間で、寺本は甲斐と向かい合って正座している。
「その、手土産を……甘いものは大丈夫だったと思うが。その……秋田さんも小犬丸のことを心配していて、私はきみ、いやあなたが――その……」
どうして私はこんなにぎごちない喋り方をしているんだ、と寺本は自分自身に歯噛みしそうだった。
つまり意識しすぎなのだと、寺本の妹、柴がこの場にいれば即座に指摘しただろう。この部屋――すこし古いが特に変わったところはない――が、特殊な感情を抱いている相手の私的な空間だと意識しただけで、寺本がこれまでの社会人生活、ことにプレゼンや圧迫交渉といった場で培った経験が、まったく役立たずになっているのである。
甲斐は寺本の動揺を知ってか知らずか、チーズケーキの紙袋(落とした衝撃で少しひしゃげてしまった)を間にはさんで、静かに座っている。正座のために背筋がいつもより伸びている。寺本も不自然なほど姿勢よく、直線的に背中をのばして座っている。ただの癖である。
静けさのなかで時を刻む音がカチッコチッと響く。古めかしい小さな柱時計の音だ。縁側の方でちりん、と風鈴が鳴った。寺本には甲斐の表情は読めなかった。寺本を邪魔だとか、迷惑とは思っていない気がするが、ただの思いこみかもしれない。
見舞いという名目で菓子を渡すことにも成功したから、早くいとまごいをしよう。と寺本は思った。
そういえば小犬丸はどこに行ったのだろう。甲斐が近くにいれば常にまとわりついている印象を持っていたが、この家ではちがうのだろうか。
「水曜日に話したことだが」
ためらいながら寺本は口を開いた。
「これは……念のためにもう一度いうのだが、プライベートに私は口を挟むつもりはないし、あなたの判断や行動を信頼している。繰り返しでしつこいかもしれないが……」
「ありがとうございます」
甲斐は即座に返してきたが、寺本はまだ何かいいたかった。話すべきことがあるからではなく、会話をつなげたかっただけである。
「もしこの件で、その……」寺本はどんな表現を使うべきか迷った。彼氏? 恋人?「付き合っている人とトラブルでもあったら、悪かった」
甲斐の返事はそっけなかった。
「ちがいます社長。問題があったのは僕の方ですから」
私は馬鹿か。寺本は内心ほぞをかんだ。どうしてもっとマシな、こなれた、さりげない、どうでもいい話題を出せないのか。
「その……小犬丸は大丈夫なのか? 奥にいるのか?」
甲斐はまばたきした。何事か思い出したような素振りで「ちょっと……」つぶやくと素早く立つ。
「すみません、少し待っていてください」
寺本は手持ち無沙汰なまま取り残された。そのまま数分が過ぎた。甲斐は戻ってこない。
正座した足を解こうか迷いはじめた頃、唐突に開いたままの戸の奥から、ガタッ、ドサッと物が倒れるような音が響いた。寺本はビクッと反応し、飛び上がるように立ち上がった。
戸からのぞくと甲斐が廊下のつきあたりで、膝をついてうつぶせになっている。腕を前にのばして、まるでヨガのポーズ(腕をのばした子供のポーズ、と寺本の理性は瞬時に変換した)のようなかっこうだ。あわてて駆け寄ろうとしたとたん、甲斐の下から犬の吠え声が響いた。
え?
ぶつぶつと聞こえるのは甲斐の声だった。しかし何を話しているのかは聞こえない。寺本はさらに近づき、甲斐が犬を押し倒し、その背中に顔をくっつけてつぶやいているのを目の当たりにした。それどころか、犬の胴体を抱きしめているその手がさらに動いている。犬の股間をまさぐっているのだ。犬の――
一瞬脳裏をよぎった想像に寺本は大声をあげた。
「甲斐君!! 早まるな!!!」
ひらりとすばやく近寄って犬を抱きしめている甲斐の手をひきはがそうとする。
「いくら恋人と何かあったとしてもだ!!! 犬をはけ口にするのはやめたまえ!!!」
しかし甲斐は抵抗しながら叫んだ。
「小犬丸! 帰ってきてよ!」
気がつくと寺本は床に尻もちをついた姿勢で甲斐を羽交い締めに抱きしめていた。犬は足元で自由になった体をぶるぶるとふるわせて、ととととと……と廊下を駆けていく。
「離してください!」寺本の腕の中で甲斐が怒鳴り、もがいた。「こいさんをつかまえないと――」
「きみは何をしようとしていた?」
「何でもいいでしょう! 小犬丸を呼び戻さないと――彼が帰らないとイヌメリは――」
「いったい何をいってるんだ。しっかりしろ」
「心配しなくても僕は大丈夫ですよ! このうえなく正気ですから!」
もがきながら甲斐は寺本の腕をふりはらったが、柔軟度の高い寺本の方が動きは速かった。正面にまわりこむようにして寺本は床にあおむけになった甲斐に覆いかぶさると、その両肩を床に押さえつけた。
「きみのどこが正気なんだ?」
「どこがって――」
たちまち甲斐の眸がうるみ、涙がこぼれおちた。
「どこが……」
唇が小さく動き、声にならない吐息がもれる。
――次になぜ自分がそんな行為に及ぶことができたのか。
寺本自身にもわからなかった。押さえつけた肩から力が抜けたのを合図のように感じたのか。眼と眼をあわせたあとは、ひきよせられるように甲斐の顔が近くなる。しかし寺本の理性は頭の片隅で、ドラマやゲイビデオでは時々こんな意味のわからないシーンがある、と考えている。わけのわからない経緯でもみあっていたふたりがいきなり眼と眼をあわせて、そして――
こんな風になる。
自然な動きで寺本は甲斐にキスをした。甲斐の唇はすこし湿って弾力があり、うっすらと温かく、心地よかった。腕の中の肉体も心地よかった。ふるえる甲斐の手が寺本のシャツをつかみ、引っ張る。襟元が締めつけられても高機能ストレッチ素材は適度に伸びて寺本の呼吸を確保した。唇がずれ、甲斐が吐息をつき、寺本は吐息を追うようにまた唇を重ね、顎、頬とずらしていく。きめ細かな肌からは寺本を惹きつける甘い匂いがする。
「紀州さん……」触れる唇の下からかすかな声が聞こえた。
寺本の体に甘い衝撃が走った。最近の寺本は夜中や朝方に何度も甲斐のこんな表情を妄想していたが、寺本の頭の中では、甲斐はけっして自分を名前では呼ばなかった。
「紀州さん……どうして……」
「きみが好きだ」
衝動的にささやき、寺本はハッとした。これはセクハラか? それともパワハラ? いや両方?
馬鹿者。いますぐ自分がのしかかり押し倒している温もりから離れろ。と、寺本の理性がガミガミいった。途方もない克己心が必要だった。なぜなら甲斐の体を抱きしめている寺本の股間はすでに堅く成長してスラックスの中で痛いくらいだったし、同じように堅く持ち上がる感触はいま押し倒している体の方からも、シャツを通して自分の皮膚に伝わっていて――
「すまない。申し訳ない」
「……紀州さん」
離れようとした寺本のシャツを、甲斐の手がまたぎゅっと引いた。
「僕も好きです」
え?
寺本の中でガミガミいっていた理性が、上から降ってきた巨大なクエスチョンマークで気絶した。
甲斐は腕を伸ばし、寺本はそのまま上体をひきよせられた。顔と顔、唇と唇がふれあうところで、甲斐の声はもう一度、はっきりと聞こえた。
「僕も好きです。ずっと……好きでした。社長」
甲斐との口づけはまだ食べてもいないチーズケーキのように甘かった。背後でカタリと物音が鳴っても、ふたりは夢中で唇をかさねていた。
というわけなので、寺本が甲斐を抱きしめながら顔をずらした拍子に、すぐそばに誰かが立っていると気づいたときの驚きは、推して知るべしというものである。
長身の若い男が腰に手を当てた仁王立ちで寺本を見下ろしていた。
類のない美声が響いた。
「まったく、人間というのは面倒くさい」
男はふん、と鼻を鳴らした。初めて見るのに、見覚えのあるような気がする仕草だった。
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