14.犬の右腕と人の左腕

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14.犬の右腕と人の左腕

 寺本はぐったりした甲斐を背中から抱きおこした。繋がったまま、脚を開いた座位の姿勢になり、汗に濡れた甲斐の体を膝へと引き上げる。 「あ……ああ…ん」  ひどく色っぽい声をあげて甲斐がうめいた。  抱えこんだ甲斐の膝のあいだに犬耳が立つ。人の姿になった小犬丸が裸の背中をさらし、腹ばいになって甲斐の股間を舐めているのだ。舌を使う音が響くたびに、寺本の腕の中で甲斐はぴくっと反応する。  その動きと声に煽られて、達したばかりの寺本の中心はまた堅くなり、甲斐の中でむくりと頭をもたげる。舌の音が響くたび、甲斐の内側は寺本をきゅっとしめつけてくる。気持ちよさに寺本は思わず腰をゆすりあげた。 「あっ」甲斐が小さな声をあげる。 「だめ、また……」  寺本紀州はこれまで自分自身のことを、どちらかといえば保守的な人間だと考えていた。だから、深夜にひとりでみるゲイビデオならいざ知らず、実際のセックスはふたりだけの密室でするものだと思っていたし、自分がこんな状況に突入するなどとは想像もしていなかった。  しかしである。 (紀州、うまく支えてやれ) 「こいさん、やめて……恥ずかし……」 (史雪、好きなだけあいつを喰えっていっただろう) 「や、そんな――」  小犬丸と自分に挟まれて快感をこらえられない甲斐の声は、無性に欲情を煽るのだ。寺本は甲斐の首筋に唇をおしつけ、ゆっくり腰を揺すった。より接触が深くなり、奥までずしっと繋がるのがわかる。甲斐のうなじから耳の裏へ舌をはわせると、甲斐はびくっと震え、奥がうねるように寺本を締めつける。 「あ、あ――紀州さん……」  甲斐がみずから腰を揺すりはじめると寺本はもう我慢できなかった。他人と肌を密着させ、呼ばれることで得られる充実に、自分の奥底にあいていた亀裂が埋められていく気がする。  人間に変身した小犬丸は、人間に変身しただけあって、たいていのことができるらしい。  寺本が体を洗って茶の間に戻ると、小犬丸は手慣れた様子で甲斐を別室に運び、布団の上に寝かせていた。甲斐は寺本と小犬丸、ふたりがかりで責められたおかげで、くたくたになって眠ってしまったのである。  おかしな気分だ――と寺本は思った。窓の外では日が暮れようとしている。今日は土曜日だな、と胸のうちで考える。まだ土曜日だ。手土産をもって甲斐を訪ねてから半日も経っていない。なのに寺本の現実感覚(リアリティ)はぐるりと回転して、それ以前とは異なるものに変わったようなのだ。そこにいる存在を平然と受け入れている自分も、別室で眠っている甲斐を抱いた自分も、今朝は存在していなかった。  縁側から遠くみえる海の上がきれいに晴れていた。柱時計がおだやかに時を刻んでいる。甲斐は朝まで眠っているのかもしれない。とりあえず寺本は茶でも入れることにした。勝手をさせてもらった礼は、あとで考えることにしよう。  放置されていたケーキの皿やカップを片づけ、小さなキッチンで茶葉を探していると、背後で「俺はいらんぞ」と小犬丸がいった。  まさにそれを――つまり何人分の茶を入れるべきか気にしていたところだった。寺本がふりむくと浴衣を羽織った小犬丸と眼があった。 「俺は人間のものは飲まん」 「犬のならいいのか?」 「犬の時はな」  寺本は眉をひそめた。彼にいろいろなことを問いただしたいという欲求と、この存在に何をたずねても無駄だ、という考えが交錯する。でも――と、ポットに湯を注ぎながら寺本は考え直した。話を聞く機会はまた訪れるだろう。甲斐は犬の右腕だ。この先も自分が甲斐と心を通じあわせることができれば、この存在の秘密も自然とわかってくるのではないだろうか。 「きみはどこへ行っていたんだ?」  寺本は湯呑みをちゃぶ台においた。浴衣姿の小犬丸は壁際に寝そべり、片方の肘をついて寺本をみていた。「どこって?」という。  寺本は困惑した。彼が()()の時をどう表現すればいいのだろう。別犬(べつじん)だった時、とでもいうのか。 「つまりその……いなかっただろう。その犬の体に」  小犬丸は寺本の質問に興味なさそうな顔で、小さくあくびをした。 「遠くだ」 「遠くといってもいろいろある」 「遠くといったら遠くだ。ああ、人間のいいかただと、昔、だな」 「昔?」 「おまえたちは記憶とか、思い出とか、過去とか、いろいろないいかたをする。俺にとっては同じだ。ここより前の場所だ。ほら、あれだ。観覧車」 「は?」  急に飛躍した話に寺本はあっけにとられた。 「観覧車?」 「遊園地にあるやつだ。遊園地はわかるな?」 「あ、ああ……」  小犬丸は噛んで含めるようにいった。「観覧車というのはな、でかくてくるくる回っている風車みたいなやつだ。風車の羽根のところが透明のカゴみたいな容れ物になっている……」 「観覧車はわかる。それが?」 「それがおまえたちだ。おまえたちの魂は、ああいうものに乗っている」  小犬丸はまたあくびをした。 「おまえたちの一生はあのカゴに乗ることではじまる。どのカゴも乗れるのは一度きりだ。一周したらおわり。降りて、次のカゴに乗って、また一周する。いつも前のカゴのことは忘れる。だが俺は全部覚えている。たまにちがうカゴを見に行くこともある」  小犬丸が話しているのは輪廻転生のようなことだろうか、と寺本は考えた。だが想像しようとしても、頭に浮かぶのは暗闇のなか、電飾を光らせながらくるくる回る観覧車のイメージばかりで、思考はうまくまとまらなかった。 「――きみのいっていることはわけがわからない」  なかば質問で、なかばひとりごとだった。小犬丸は眼を閉じていて、眠ったのだろうか、と寺本は思った。だったらこのまま帰るのはまずいかもしれない。どうしたものだろう。 「犬は観覧車に乗れないらしい」  いきなり小犬丸がいった。 「誰がそれを?」 「吉野。桜姫はあれを気に入っていたんだがな。いつも遠くから眺めるだけだった」 「乗りたかったのか?」  返事はなかった。 「小犬丸?」  みると小犬丸が寝そべっていたところに浴衣だけがだらりと横たわっている。袖から肉球がのぞいていた。寺本はそっと浴衣をめくった。眠る犬は穏やかな表情で、やすらかな寝息を立てている。  いい匂いがする。そう思いながら甲斐は目覚めた。  味噌汁の匂いだ。それと肉を焼く匂い。醤油が焦げる匂い。美味しそうだ。いったい誰が?  甲斐はがばっと跳ね起きた。いつの間に布団で眠ったのか。その前は何を――と思ったとたん、記憶が鮮明によみがえった。小犬丸が戻ってきて、それから紀州さんと――紀州さんとセッ……  からりと引き戸が開いた。 「起きていたか」 「紀州さん……」  甲斐はまばたきし、自分が裸なのを思い出してあわてた。ほうりだされていたタオルケットをひっかぶると、今度は寺本があわてた声でいう。 「史雪? もし具合が悪いなら……」  甲斐はまたタオルケットを跳ねのけた。 「いえ、だ、大丈夫です!」 「もう夜なんだ。勝手にキッチンを使って申し訳ないと思ったが、夕食のようなものを作ってみたんだが」  甲斐の寝起きの脳は耳に入った情報を処理しきれなかった。 「は、はい?」 「その……食事を。つまりきみを疲れさせてしまったようだからそのまま帰るのも防犯上良くないかと思ったし、といって単にいるだけというのも手持ち無沙汰だったので――余計なことだっただろうか?」 「あ、いやその――いえっ」  たとえ夜だろうと朝だろうと、寝起きの甲斐が言葉を理解するには少し時間がかかるのである。まともな返事のためには数秒のタイムラグが必要だった。 「とんでもない、余計だなんて! 起きますっ行きますっ」 「そうか」  寺本はほっとしたようだった。爽やかな笑顔がぱっと浮かぶ。 「茶の間にいるよ。小犬丸も」 「はいっ」  服を着ながら甲斐は時計をたしかめた。もう夜の九時を過ぎている。自分が眠りこんだせいで紀州さんをこんな時間まで引きとめてしまったのだろうか。申し訳なさで恐縮するしかない。おまけに夕食って……  ぶつぶつとひとりごとをいいながら甲斐が茶の間に入っていくと、ちゃぶ台には皿がいくつか並べられている。炊きたてのごはん、味噌汁、冷ややっこ、照り焼きにした鶏肉、という内容である。テレビでサッカーの実況がはじまっていた。ちゃぶ台の前に座った寺本が甲斐に笑顔を向け、犬の姿の小犬丸はテレビの前に陣取っている。  寝起きの状態はとっくに脱しているにもかかわらず、完全に予想外の団欒の光景に甲斐の頭はくらくらした。 (史雪?)  小犬丸が頭の中に直接語りかけてくる。一方寺本は弁解するように「勝手に冷蔵庫の食材を使って申し訳ないが、今度何か買って持ってくるから……」などといった。  甲斐の頭の焦点が噛みあい、現実感覚(リアリティ)を取り戻すのに何秒かを要した。 「いえいえいえ! とんでもないです。ありがとうございます、紀州さん」  寺本はふっと口のまわりをゆるめた。 「料理は下手なんだ。口に合わなかったら残してくれてかまわない」 (そうしたら俺が食う) 「犬も人間と同じ食べ物を食べられるのか? でも小犬丸はさっきドッグフードを……」  反射的に甲斐は口をはさんだ。 「だめです! こいさんにはあげちゃダメ」  小犬丸が拗ねたような眼つきをした。 (いつもこれなんだ。ケチくさい) 「こいさんの体に悪いんだって」 「やはりな。そうじゃないかと思ったんだ」  寺本は嬉しそうなニコニコ顔になった。  この人の笑顔のヴァリエーションは意外に多いんだ――と、甲斐は唐突にまったく関係ないことを思った。イヌメリに入社して一年というもの、ずっと彼をみていたのに、これまで一度も知らなかった笑顔だ。おまけに寺本の作った食事は美味しかった。たいへん美味しいと甲斐が褒めちぎったせいか、寺本は照れくさそうに、途中で妹に作り方を聞いたからと答えたが、そのときの表情も初めてみるものだった。  食事を終えると十時を回っていた。寺本は長居をしすぎたと告げて、甲斐は小犬丸と石段の下まで見送った。空はきれいに晴れて、月が出ていた。 「史雪……その……」  石段を下りたところで寺本は何かいいかけて立ち止まった。迷っているようにみえた。 (紀州。さっさといえ)  犬の尻尾がぶんぶんと振られ、寺本の足をはたく。 「その……月曜になったら、会社で会おう」 「ええ」  犬の尻尾がまたぶんっと振られた。寺本は顔をしかめた。 「こいさん、やめなさいって」 「いいんだ。その……今度どこかへ一緒に行けないだろうか」 「え?」 「今日はその……何も段階を踏んでいないから……私は――私はずっとこういう経験がないんだ。その――デートに行けたら、と……明日は急すぎるだろうから、来週でも――いつでも……」  夜の暗がりの中にいるのに、寺本がとても、とても照れているのがわかった。  胸のうちを暖かいものがせりあがって、思わず甲斐は寺本の手をとり、両手で包みこむように握った。 「ええ、喜んで行きます。どこがいいですか?」 「史雪はどこがいい? 行きたいところは?」  どこがいいかって? 紀州さんとのデートに?  聞き返された甲斐の頭には何も浮かんでこなかった。元ライターでブロガーで現広報という職業柄、観光スポットや話題のデートスポットに詳しいはずなのに。焦っても思いつかないものは思いつかない。ひょっとして今日の怒涛の展開(加えて濃いセックス)のおかげで、自分の脳のメモリは完全に消費されてしまったのだろうか。  でも、甲斐はとにかく、()()を答えたかった。後で考えます、なんていいたくなかったし、月曜に会社で「あの件ですが」ともいいたくなかったし、もちろんスマホで連絡を取ることだってできるのだろうが、とにかく今、寺本と約束したかったのだ。なのに何も思いつかない。  そばにいる犬が助け舟を出したのはその瞬間だった。 (遊園地はどうだ) 「遊園地?」  人間ふたりがほぼ同時に繰り返した。 (ただし俺を置いていくな) 「えっ……どうして」  反射的に抗議した甲斐のすねを小犬丸の尻尾がパフっと叩いた。けっこうな勢いだった。でもさ……と甲斐は思った。デートっていうのはふたりで行くものだろう?  甲斐の内心を聞き取ったかのように小犬丸が喉の奥でウウウウウと唸る。甲斐はあわてて付け加えた。 「でもこいさん、こいさんは遊園地には入れないよ――ああいう施設はヒト専用なんだから」  犬はふん、と鼻を鳴らし、寺本と甲斐を交互にみつめた。 (心配するな。俺は神だ)
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