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2.犬と会社
犬が尻尾を振りながらコンフォートルームの出入り口を行ったり来たりしていたので、社長の寺本紀州は足をとめた。
「最初に整理させていただきたいんですが、ここにいる小犬丸と御社の代表キャラクター『メリーさん』はどういう関係なんでしょうか?」
知らない声がパネルの向こうで問いを投げている。快活でいくらか性急な調子の男の声だ。パネルの上からカメラの三脚がみえたので、取材だとわかった。
社員たちに息抜きスペースとか、遊び部屋とか、ドッグランなどと好き勝手に呼ばれているコンフォートルームは五階の三分の二を占める広さで、休憩だけでなく機密性のない打ち合わせや個人の作業、取材にもよく使われている。出入り口のひとつが執務室へ通じるエレベーター手前にあったから、三十七歳にして経営企画部長から社長に抜擢され、数か月たつ今も、寺本はよく立ち寄っていた。
この部屋の窓は広くて見晴らしがよいので、他に誰も見当たらないとき、一人用の小さなトランポリンが置いてある奥の一角でヨガのポーズをとるのが部長時代からの寺本の秘密の息抜きなのである。ちなみにヨガはここ数年続いている寺本の唯一の趣味である。
しかしいま寺本が足を止めたのはもちろん、ヨガのためではない。小犬丸がはっきりと視線を向けて尻尾を振ったからだ。小犬丸がウロウロしているということは、彼の『右腕』もいるにちがいない。それにスケジュールにはたしかSNSの『中の人』としてメディア取材を受けると書きこまれていた。
実際、つぎに聞こえたのはここ数か月のあいだに聞きなれた響きだった。やわらかい布でくるんだような甲斐史雪の声だ。
「『メリーさん』は弊社のキャラクター部門が開始されて以来の看板ですけれども、長年たくさんの方にご愛好いただいて、本当にありがたい話です。今や親子三世代でファンだという方もいらっしゃるほか、先日渋谷にオープンしたキャラクターショップも好評ですし、海外からのご愛顧もいただいています」
その通りである。Inu-Merryが製造した最初のファンシー文具キャラクターである『メリーさん』は、数年前とあるハリウッドセレブにピックアップされてから、北米、ヨーロッパでも大人気になった。それ以前も国内では数度のマイナーチェンジを経ながら無数のキャラクターライセンス商品を生み出していたが、このごろは海外の映画やファッションショーにまで登場する人気ぶりだ。
他にもシリーズ化されたキャラクターは多数あるのに、『メリーさん』はいまだに絶大な人気を誇っている。インターネット時代になってから、女子中学生や高校生のあいだでは「メリイヌ」と呼ばれるようになり、ハッシュタグ「#inumerry」または「#meriinu」あるいは「#merry-san」を付したファンアートも多数SNSに投稿されていた。個人使用の範囲でのファンアートをイヌメリが正式に許可しているためだ。
「一方で、このメリーさんのモデルとなったのは弊社の創業家の飼犬です。創業者の土佐が大変な犬好きで、毎日会社――旧社屋ですが――に犬を連れてきては社長室で放し飼いにしたというんですね。当時の犬も社員みんなに可愛がられていまして、キャラクタービジネス自体も、彼をスケッチした事務員の絵を気に入った社長の思いつきからはじまったといわれています」
立ち止まった寺本の足元をかするようにして犬が部屋の中へ戻っていく。寺本がイヌメリに入社した時、社内にいたのは老衰で二年前に亡くなった先代のペット犬「桜姫」だった。桜姫は寺本が昇進の打診を受けるたび、それだけでなく新卒の採用面接のときから、つねに視界の端で尻尾を振っていた。
そして今はこの小犬丸だ。
甲斐の声は寺本の耳に心地よく響く。週に一度は聞いている声だが、声質の良さだけでなく、こういった場面での話し方がうまいのだと寺本は思う。寺本が社長に就任したときは、創業家の出身でもない三十七歳のスピード出世に注目が集まり、業界誌だけでなく一般紙からも取材が来た。この会社は昔からそんな「驚きの人事」の後に業績を伸ばしてきた歴史をもつが、甲斐は新任の社長専属広報としてこれらをうまくさばいていた。
広報部に中途入社してから一年もたたないのにたいしたものだ、と寺本は内心思っていた。社長になる前はほとんど接点がなかったが、いったいどこからこんな人材を引き抜いてきたのだろう。何しろ甲斐がイヌメリの公式Twitterを担当するようになってフォロワーが百倍に増え、企業好感度も上昇した。通常、イヌメリのPR担当として表に出るのは広報部のもう一人の女性社員だが、甲斐はSNSの「中の人」として、社内ペットである小犬丸の代弁者として、外部には名前も容貌も知られないまま有名になっている。
その甲斐が取材相手とテーブルに座っているのが、仕切り代わりに立てたパネルの隙間からちらりとみえて、寺本は思わず数秒みつめてしまった。肩は張っているが痩せ気味で、横からみるといくらか猫背だが、顎をひいて話す様子は落ちついていて信頼感がある。
ふいにパネルが揺れ、サーモンベージュのカーペットの上を犬の背中が走っていった。犬につられたように甲斐がこちらを向き、一瞬、眼があった。
寺本はぎこちなく小さく会釈をしたが、すぐに視線をそらしたので甲斐の表情は見なかった。週に一度は報告会で話をしているのに、社内で甲斐を見かけるとなぜかいまのようにじっと見てしまうのである。寺本はエレベーターへ足を向け、目先の予定に頭を切り替えようとした。取材の首尾については後で本人に聞けばいいのだ。
(史雪、気づいたか? 紀州が見ていたぞ)
あらかじめ準備していたスライドをインタビュアーに見せようとしたとき、甲斐の頭の中で小犬丸が喋った。本体は視界の隅で尻尾を振っている。
(見たよ)
と甲斐は頭の中で答えた。
今朝もカッコよかったな、と同時に思う。寺本紀州の容姿は甲斐の理想なのである。姿勢が良く、適度に肩幅があり、柔らかそうな髪に、涼しい目鼻立ち。眼福とはこのことだ。
しかし聞こえてきた小犬丸の声はいささか不満そうだった。
(そうか。そんなにアレがいいのか)
甲斐は無視した。ちょうどかぶるように質問を投げてきたインタビュアーに視線を戻す。
「では『メリーさん』はその飼犬の名前だったんでしょうか?」
「いえ、初代は『明智小五郎』と呼ばれていました。メリーさんというのはその最初のスケッチに描かれていた擬音だったとか……原本が紛失してもう確認はできないのですが」
「それでペットが社内にいるという習慣がその後何十年にもわたって継続している、と?」
「初代の明智小五郎が老衰で亡くなったあと、別の社員がどこかで拾った犬を敷地内に持ち込んで、こっそり飼っていたというんです。それを知った当時の社長が許可を出しまして、以来、つねに社屋のどこかに犬がいることになりました。小犬丸は最初の飼犬に姿が似ているので『メリーさん』のキャラクターとイメージが多少かぶりますが、これも血縁があるわけではなく、たまたまですね」
「たしか先代は『桜姫』ですよね」
「ええ。桜姫は約二年前に老衰で亡くなって……ここにですね、これまでの犬たちの歴史があります」
甲斐はスライドに映る犬たちの写真を順番にタッチペンで差す。
「小犬丸は四代目です。明智小五郎、大五郎、桜姫、みな十数年で寿命を迎えていますが、最後まで私たちの友人でいてくれました」
インタビュアーの久下はふんふん、とうなずきながらメモをとった。
「でもいくら可愛くても犬や動物がどうしてもだめだったり、苦手な社員もいると思うんです。その場合はどうするんですか? 採用しないとか?」
(ふん。そんな人間がいるはずがないだろう)
またも甲斐の頭の中で自信たっぷりの声が響く。
(俺は神だぞ。犬アレルギーだろうが動物恐怖症だろうが、おとといきやがれってやつだ)
(こいさん)
甲斐は表情を変えないよう細心の注意を払いながら犬の本体を探す。いつの間にか久下のすぐそばに戻っていて、わずかに顔を傾けてちんまりと座っている。やはり圧倒的に可愛い。世界一可愛い。しかし――
(あのさ、頼むから取材中は黙ってろって。ヘンなこといっちゃったらどうするんだ)
(大丈夫だ)
甲斐の頭の中に聞こえてくる声はまったくもって、可愛いといえるたぐいの口調ではなかった。どちらかといえば「おっさん」である。声はいい。声は美声だ。セクシーといってもいい。しかし……
(なにが大丈夫だよ)
(俺の右腕のくせに何をいってる。いわば神の右腕ということだ)
(噛まないって自慢してたくせに)
(ダジャレでじゃれたいならアルファベットでDOGと書いて逆から読め。GODになる)
(それキリスト教とかイスラム教の人が聞いたら怒るんじゃ……)
甲斐にとっては、もう自分の頭がおかしいのでは、と疑う段階はとうにすぎていた。いや、自分の頭はおかしいのかもしれないが、それを思い悩む段階はとうにすぎていた、というべきかもしれない。
なにしろ三十四歳で株式会社Inu-Merryに中途入社できたのはいいが、甲斐はこの会社で毎日のように、自分の主観においては見た目で世界一可愛い犬と世界一くだらない会話を交わしているのである。おまけにこの犬とのやりとりはどういうわけか、甲斐の最重要職務を果たすために不可欠の要素となっている。しかもこれは甲斐の妄想ではなく、事実である。
そのせいだろう、甲斐はいまやめったなことではこれを、つまりそこにいる犬が自分の頭に話しかけてくることを異常だと思わなくなっている。しかしこんな風に会話をするのはこの犬だけであり、そこが甲斐の気持ちを多少救っていた。つまり、異常なのは甲斐ではなく、この犬の方なのだ。――と、とりあえずは自分を納得させたのである。
甲斐が『右腕』に任命されたのはInu-Merryに入社して一カ月後のことだ。この現象はそれから間もなくはじまり、以来、階段をのぼるように異常さを増し続けている。が、眼の前でインタビュアーが待っている今、この詳細を思い返している場合ではない。
まずは眼の前の仕事だ。しかし――
(ずっとおとなしくしていたのに、紀州さんが通ったからってなんだよ)
(俺の右腕のくせにあいつをガン見しているからだ)
(悪いか。ファンなんだよ)
と、頭の中で毒づきながら甲斐はインタビュアーになんとか意識を戻した。小犬丸とこんなやりとりを続けていると、社会人として過ごした年月にかぶったはずの皮が剥けそうになるから困る。
おまえは企業広報だぞ、企業広報。
「犬が苦手という方はけっこういらっしゃると思うんですが、採用に関してはこれが問題になったことはありません。小犬丸はもちろん清潔で、ダニや病気もありませんし」
(俺の毛並みは完璧だからな)
「むやみと吠えたりもしませんし」
(無駄に吠えるような愚かさなど、とうの昔に捨てたぞ)
「また弊社では就職希望者に対し、最終面接前の健康診断で全般的なアレルギーの検診と対策も行っています。これは動物の毛にアレルギーを持つ方がいらっしゃるからですが、それだけではなくて、現代人にとってアレルギーはたとえ眼に見えなくても業務に支障をきたしかねない、大きな要因となっているからです。産業医が定期的に診察できるように体制も整えていますが、そのせいか入社後アレルギーが少し楽になった、という社員もいます」
(俺が治したからな)
(こいさん、うるさいってば! このセリフ長いんだよ!)
「彼――小犬丸君は何歳ですか?」
インタビュアーは取材向けの顔を懸命に保っている甲斐の、内心の葛藤に気づいた様子もなく――気づかれても困るのだが――さらに質問を投げかけてきた。
「一歳六か月ですね。人でいえば十代なかばから後半くらいです。雑種ですが、レトリバーの血が入っています」
「じゃあ、ピチピチのハンサム男子高校生っていう感じでしょうか。ペット犬のために本社を都心から離れたこの海岸に置いている、という噂もありますが、これはほんとうですか?」
「半分冗談で半分本当、ですね」
ピチピチのハンサム男子高校生、という久下の発言の直後、犬の尻尾が大きく振られたのを甲斐は頑として無視した。
「弊社は、人材こそが最大の資産だと考えていますので、社員が創造性を最大に発揮してくれる環境が重要と考えています。都心から離れているといっても、この町はベッドタウンですから交通手段も複数ありますし、その一方で都心への通勤で社員が消耗しなくてすみます。海も山も近いので休日はレジャーも楽しめますしね。もちろん小犬丸の散歩や運動にも不便がありません」
「小犬丸君はこの近くで暮らしているということですね」
「ええ、専用の社宅で」
甲斐はうなずいた。タイミングを見計らったように小犬丸は両足を甲斐の椅子の脚にかけ、膝の上へのびあがるように頭をつけてくる。反射的に頭をなでると、赤茶色の毛のかたまりはひょいと甲斐の膝の上に登った。
すかさずシャッター音が鳴った。
「これは今日の取材でぜひとも聞きたかったことなんですが」
インタビュアーは甲斐の顔と小犬丸と手元のメモをかわるがわる眺めている。
「御社には『犬の右腕』という役職があると伺ったのですが。公式Twitterで時々言及されている……」
来たな、と思いながら、甲斐は膝の小犬丸をどっこいしょと両腕で抱く。
「ええ、さっきお話したように、小犬丸は社内ペットで、社員のあいだの潤滑油のような役目を果たしています。ですが彼より偉いのはわが社では四人だけで、何しろ専務ですからね。役員秘書も必要ですし、食事の世話とか、風呂とか、つまり小犬丸の世話をする係が必要になるわけですが、それをわが社では『右腕』と呼んでいます」
「その役目に甲斐さんがついていると?」
「そうです。右腕には小犬丸と社宅で同棲――いや同居する任務がありまして、もちろんその手当も出ます。社内でも小犬丸の様子に眼を配って、彼が社員をかんさ――いや、かまうのを気にかけたりとか。ジョーク職の側面もありますけどね。先代のペット犬の桜姫も専属の『右腕』と暮らしていました。この方は今は退職されましたが」
「ほう、それは……なかなか大変ですね」
「もちろん他の業務もありますよ。僕は広報部所属でPRの副担当です。正担当者の補佐のほか、ご存じの通り企業ブログを書いたり、公式SNSを管理しています。社長の専属広報も担当しています」
小犬丸は甲斐の膝の上で舌をハァハァさせ、久下の唇を読んでいるかのように前をみつめていた。そろそろインタビューは終わりだろうか。それにしても膝に乗ったこの犬の重さはなんだろう。甲斐がここへ入社し、対面した時はまだ子犬だった。いまは完全な大人の犬ではないにせよ、凛々しい若犬といったところ。もちろん可愛さに変わりはないが――
と思ったとたん、犬は首をめぐらして甲斐をみつめた。
(当然だな。俺はもう史雪になんでもでき――)
(そんなこといってるならもう膝に上げないよ)
久下は犬と人のあいだで交わされたやりとりはわからないまでも、甲斐と小犬丸の眼が合うのをじっとみていた。
「どうして甲斐さんはこの――『右腕』に任命されたんです? もともと犬好き? ずっと飼われていたとか?」
甲斐は首を振る。
「犬は好きですけど、飼ったことはないんですよ」
「何か任命のきっかけがあるんですか?」
「それが見当もつかなくて」
とたんに甲斐の頭の中で小犬丸が吠えた。膝の上にいる体も小さく「ワンッ」と鳴いた。
インタビュアーはひょうきんに顔をゆがませ、楽しそうに笑った。
「さっきから、まるで小犬丸と実際に会話をしているみたいですね? 彼、なんていってますか?」
甲斐は犬の腰に手をまわし、床へ追いやった。そしてこの光景がカメラに納められるのをシャッター音から聞き取った。
「俺が選んだ、といっているようです」
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