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3.犬と秘密
甲斐史雪はこれまでの人生で、犬を飼いたいと考えたことが二回ある。
一回目は小学生の頃だった。きわめて単純なきっかけだった。初恋の相手が犬を飼い、毎日散歩させていたからである。自分も犬を飼っていれば一緒に散歩ができるのではないかという、きわめて利己的な発想でもあった。
もっとも当時の甲斐が明確にそれを恋だと自覚していたわけではない。というのも、相手は近所に住んでいた三歳年上の「お兄さん」だったからである。
ふたりとも小学生だったときは、時々かまってくれる「大好きなお兄さん」に甲斐がよく懐いていた、くらいのことだった。その気持ちが少し変わったのはお兄さんが中学にあがってからだ。めきめきと背が伸び、大人っぽい(小学生の眼で見てである)制服を着たお兄さんに、甲斐は急にこれまで感じたことがなかったときめきを覚えるようになった。
しかしいざお兄さんに話しかけようとしても、なぜかこれまでのようにはいかないのである。というのも、小学生と中学生の境目は海溝よりも深いからだ。およそ別世界の住人といっても過言ではない。
そんなある日、お兄さんは――実際は彼の家が、だろうが――犬を飼いはじめた。
そして当時、遠くから憧れのまなざしでお兄さんを観察していた甲斐は発見したのだった。犬を連れている人同士は散歩で行き会ったとき、実に気軽に会話をはじめることに。
犬を飼えばお兄さんに簡単に近づける! お兄さんと一緒に散歩に行けるかもしれない! 等々と盛り上がった甲斐はさっそく両親に犬を飼いたい、と相談したのだが、あえなく却下された。
「犬は吠えるから、飼うなら猫でいいじゃないの」
と母親にいわれたのだ(他の理由もあったはずだが、甲斐が記憶しているのはこれだけだった)。甲斐は反論した。
「猫なんて飼わなくてもその辺にいるじゃないか。それに僕は犬を散歩に連れて行きたいの」
「生き物を飼うって大変なことなのよ。飽きたとか、嫌になったからってやめられるようなことじゃないの。史雪が自分で責任もって面倒をみれると証明できるなら、考えてあげる」
もちろん甲斐は後先も考えず「やれる!」と断言した。しかし犬を飼うことは結局なかった。というのもその後、父の急病や失業などが重なって一家はその地域を離れたからだ。ペット禁止のアパート住まいになって、住む場所も遠くなってしまったお兄さんに対する甲斐のぼんやりした恋心も、いつの間にか消えた。
ちなみに当時のお兄さんに対する気持ちが「恋」だったと甲斐が自覚したのはそれから数年後、部活の先輩に片思いをしてからである。
二番目に犬を飼いたいと思ったのは、就職して社会人となり二年ほどたったころ、半年付き合っていた男と別れたあとのことだ。
自分の性向を自覚した上で性欲をもてあまして悶々とする中学高校時代を経て、大学デビューしてから数年、すでに甲斐は恋愛とセックスに関しては数々の失望を重ねていた。だが行きつけのバーで知り合ったこの男とはなぜか、本物の「恋人同士」になれたと信じていたのだ。
しかし向こうの認識はそうではなかったらしい。甲斐の一方的な思いこみがたくさんあったのだろう。
別れたときはとくに愁嘆場などなかった。自分に興味をなくしたという相手にすがるのはみっともないとその頃の甲斐は考えていたし、出会ったバーでまた顔を合わせる可能性もあって、そんな折に気まずい思いをするのは嫌だった。
しかし自分でも理由がわからないまま、ひとつだけ深く傷ついことがあった。それは別れ際に相手が何気なく告げたひとことだった。
「おまえさあ、終わった後もくっついてくるけど、あれ嫌だったんだよね」
たしかに甲斐は――くっつくのが好きである。
好きになった相手にはつねに接触していたいし、セックスが終わった後、ベッドでハグしあっているのも好きだ。事後というのは汗だの精液だのローションだの、もろもろの匂いやべたべたにまみれて汚いことも多いが、それでも相手の匂いを感じているのは安心感があり、愛しさがこみあげてきて嬉しいのだ。
しかしそれが自分だけのことだったとは。
そんなの、もっと早く教えてくれ、と甲斐は思った。自分が好きな行為を相手が実は嫌いだったと知るのは気持ちよいものではない。同時にそれ以来すこし臆病になった。積極的にセックスや恋愛の対象を探すのが怖くなったのである。
その一方で、夜中にアパートの部屋でふいに目覚めたとき、自分以外の息づかいがどこからも聞こえないことにぞっとしたり、深く沈みこむような寂しさに襲われてどうにもならないと思う時があった。このままずっと一生自分はこうしているのだろうか、という恐怖が襲ってくるときもあった。
甲斐はゲイでかつネコだが――この性癖は高校生のころに自覚済みだ――ゲイでなくてもただでさえ恋愛や結婚の相手を探すのが大変な今日この頃、圧倒的少数派の自分はこの先どうなるのか。だんだん年をとり、しょぼくれたおっさんになっていくと、どうなるのか。
ああああああ――せめて撫でて抱っこできるものがほしい……。話しかけたら応えてくれるものがほしい……。
単純で身勝手だが切実な動機とはいえるかもしれない。
甲斐が通勤途中のペットショップのガラス越しに犬を眺めるようになったのはそれからだ。猫を飼おうとはまったく考えなかった。セックスではネコのくせに「猫は自分の仲間にはならない」と思いこんでいたのである。子供のころ、実家の周辺にたくさんいた飼い猫や野良猫によそよそしい印象を持っていたせいだろうか。猫とは犬のように眼を合わせてコミュニケーションをとれる感じがしなかった。そしてウサギやハムスターのような小動物は、甲斐の念頭にはまったく思い浮かばなかった。
このころ甲斐はペット可物件への引越を真剣に考え、犬を飼うために必要なものや病気にかかったらどうするのかなど、保険のことまで細かく調べた。
里親募集のイベントにも行った。しかしこれは失敗だった。主催者に断られたのである。そこまで強く拒絶されたわけではなかったかもしれない。もはや記憶はおぼろげだが、なぜ犬を飼いたいのかと詰問されたあげく、ひとり暮らしの若い独身男性がペットを飼いたいとやってくるときは動機や責任感が怪しい場合が多いから今回は相談だけで、と帰されたのだった。
その場では納得した顔をして引き下がったものの、甲斐はまたなんとなく傷ついて、二度目のチャレンジをする意欲が萎えてしまった。こんなことを考えなければよかった、と後悔したのが、もう十年近くまえのことである。
「なのにどうして今こんな風になっているんだろう……」
(どうした?)
ひとりごとのつもりだったのに、少し前を歩いている犬がふりむいて立ち止まる。
「何でもないよ。午前の取材はどうだった」
他に誰も廊下にいないので甲斐は声に出してしまうが、はたからみると奇妙なのは一応承知である。
(男は馬鹿じゃないが聡くもない。写真を撮った女の方がよくわかっている。史雪を気に入っていたぞ。それから俺を怖がっていた。子どものころダメな犬に脅されたことがあるな)
「そう?」
甲斐は取材にいたカメラマンの女性を思い浮かべる。小犬丸に対してはやや引き気味の姿勢だったかもしれない。
「最後はこいさんを撫でていたけど?」
(それは俺がカワイイから)
「自分でいうなよ。それから初対面の野郎の股を嗅ぐなよ。前もいっただろ」
(初対面だからだ。オスの大きさを知るにはあそこが一番だ)
「なんでそんなに露骨なの?」
(あのオスは並みだ)
「むごすぎる。今日の巡回はどこから?」
(総務だ)
午後もまだ早い時間だ。小犬丸は尻尾を振りながら堂々と廊下の真ん中を歩いた。向こうから歩いてきた女性社員が声をかけると愛想よく尻尾をふり、近寄って、小首を傾げるようにうるんだ瞳で見上げ、差し出された手のひらの匂いを嗅ぐ。頭や背中を撫でられるとクゥーンと鳴く。あああああ可愛い……少なくとも見た目は……
(史雪、いま余計なことを考えただろう)
(可愛いなあって思っただけだよ)
一方、かがんで小犬丸の背中をごしごし撫でていた女性社員は(すこし強めに撫でられるくらいが小犬丸の好みなのだが、社員の多くはそれを熟知しているのだ)小さな声で「今日も元気ですね~こいさんは~」とささやくと、立ち上がって甲斐をみる。
「右腕さん、午後の巡回、お疲れ様です」
「こちらこそお疲れ様です、澤田さん」
甲斐が小犬丸の『右腕』なのは社内の全員が知っている。
社内ペットとしての小犬丸の一日を、ほとんどの社員は次のように認識しているだろう。朝、甲斐が小犬丸を連れてきて、リードを外す。日中は息抜きスペースの一角に用意された「小犬丸デスク」(トイレや水飲み場が設置されている)周辺にいて、一人遊びをしたり、時々かまってくれる社員に甘えたりしている。ときどき居眠りをする。そして午後は必ず一度、『右腕』の甲斐と一緒に社内を歩き回るのだ。
これを散歩と呼ぶ社員もいれば、澤田のように巡回と呼ぶ社員もいる。後者の方が正しくこの行動をとらえているが、真の意味を知っているのはごく限られた人間だけだし、甲斐の『右腕』という役割についても同様である。
(彼女、緊張しているぞ)と小犬丸がいった。
「澤田さんが?」
(先週よりも緊張している。会いたくない相手がいる)
甲斐は社内のスケジュール表を思い浮かべる。これから企画の定例ミーティングだろう。
巡回のあいだ、甲斐はトコトコ歩く小犬丸にすこし離れてついていく。イヌメリの社内はほとんどがオープンスペースだが、資料課や総務課のように区切られた部屋もあって、その場合、甲斐は通路で待機している。小犬丸はデスクの間をウロウロし、あたりを嗅ぎまわり、社員たちに撫でられ、声をかけられる。
(課長が寝不足だな)
戻ってきた小犬丸がそういうのを甲斐は記憶にとどめた。
こうやって社内を巡回するあいだに小犬丸が気づく小さな事柄――ふだんとちがう事柄――を記録するのが、ごく限られた者しか知らない『右腕』の重要な仕事なのである。
まったくわけがわからないよ――と、数か月前の甲斐はとまどったものだが、慣れとは恐ろしい。この頃はたまに我にかえって「あれ?」と思うだけで、しかもすぐ小犬丸に邪魔されて忘れてしまう。
そして甲斐が把握する限り、社内では会長だけは甲斐がこんな風に小犬丸と意思を通じあわせているのを知っているが、数か月前に社長に就任した寺本紀州はそうではない。
教えられなければもちろん、知るはずもない(教えられたって、常識に照らせば簡単に信じられるものでもないが)。きっと自分を社長にしろと推したのがこの犬だということも寺本は知らない。
もっとも寺本が社長に就任したあとで、小犬丸が果たしている役割については会長から説明があったはずだが、甲斐自身は、会長がどんな説明をしたのか聞いていない。しかし寺本社長は小犬丸に格別な反応を見せないので、ただの犬以上の存在だとは思っていないだろう。
『右腕』である甲斐の平日はだいたい次のようなものである。
朝は夜明けに起きる(小犬丸が起こすため)。小犬丸に朝食をやって、自分も食べる。晴れていれば海岸を散歩しながら出社。今日のような取材対応のない日は、午前は広報部のPR担当の補佐として情報のピックアップや調査をして、社内報を制作。小犬丸の様子をたまにみながら、午後は報告会や社内ミーティングへの出席。ちなみに甲斐が出席するミーティングには小犬丸を必ず連れて行くことになっている。その後で小犬丸と社内を「巡回」するのだ。そして退社前にTwitterなどのSNS管理をしたり、ブログを書いたりもする。
退社時間は季節によって変わる。まだ太陽が出ているうちに小犬丸を外の散歩に連れて行くので、その都合に合わせて帰っていいことになっているのだ。これを不満に思う社員もいないらしく、逆に夕方、小犬丸が甲斐のところへやってきてズボンの裾にじゃれはじめると、近くにいる者が退社を促すくらいだ。
創業まもないベンチャー企業ならいざしらず、つくづく奇妙な会社である。転職と失業期間を経てイヌメリへ入社した甲斐には摩訶不思議なことばかりだった。ちなみに小犬丸が社員に「こいさん」と呼ばれるのは会長がそう呼ぶからである。初めて聞いたとき、甲斐は大昔に読んだ谷崎潤一郎を思い浮かべつつ、「こいさん」は大阪弁で女の子のことではなかったか、と違和感を感じたが、これにもやがて慣れてしまい、今では自分もそう呼んでいるしまつだ。
まったく慣れとは恐ろしい。異常な事態がさらにエスカレートしてもだんだん平気になってしまう。何より恐ろしい慣れといえば――
「史雪。散歩行くぞ散歩」
『右腕』の社宅は社員寮とは別扱いだ。会社から徒歩二十分、海からせり上がった少し小高い場所にたつ一軒家である。開け放した縁側からは海がみえる。甲斐は空になったご飯茶碗を片手に、沖で灯台が点滅するのをぼんやり眺める。今日も一日が無事に終わり、じつに平和な晩ごはんだ――そのはずだ。
なのに畳に座った甲斐の背後から、ハーフパンツを履いた長い足がにょきっと突き出してくるのである。さらに、太くはないがしっかり筋肉の張った腕が甲斐の腹のあたりを拘束している。
「ええ? もう夜だよ、こいさん」
「この頃の人間は昼間明るいところで俺をみると驚く者が多すぎる。夜くらい気分転換に二本足で歩きたい」
耳元で聞こえてくるのは昼間は頭の中で聞こえていた美声だ。硬めの髪が甲斐の首筋をなぞる。
「それ、外で犬に変身するからだろ? ていうか家の中でも犬の姿でいてよ」
「何をいってる。俺は神だ。犬のままで居ろという法はない。行くぞ」
甲斐を持ち上げるようにして強引に立たせた腕は、やたらと広い肩から伸びている。むやみに背が高いが、顔はまだ十代で、体つきも十代だ。甲斐がずっと前に通りすぎた年齢である。なのにその口から出てくる言葉は妙におっさんというか俺様なのはどういうわけだろう……内心そう思いながら、抵抗できないのをここ最近思い知った甲斐はしぶしぶ立ち上がる。
しぶしぶといっても夜の散歩そのものは嫌いではない。一緒に歩く者がいるなら、なおさら。
「俺と遊ぶのは好きなくせに、どうしてそんな顔をするんだ?」
と、小犬丸がいう。
そう。こいつは小犬丸なのだ。
おかしいよ、と甲斐はあらためて思う。ハーフパンツにTシャツを着て、やたらと背が高く、妙にハリのある若さあふれる肌をして、顔もたしかにイケメンのこいつが――
この「小犬丸」があらわれたのは、紀州を社長に抜擢すると取締役会が決定した日の夜、この社宅の縁側でのことだった。その時あらわれた「小犬丸」はいまほど体格が良くなかったし、見た目も中学生のようだった。
甲斐にとっては忘れられない夜である。なにしろ、犬が人に変身する現場を目撃するなど人生にそうそう起きるはずがない。その後は毎日のように同じ現象に遭遇しているとはいえ。
だから甲斐がこうつぶやいてしまうのだって当然なのだ。
「やっぱり時々我にかえるんだけど、いったい現実ってどうなっているんだろう……」
イケメンは甲斐の背中にぴったりくっつき、頭の上で笑った。
「仕方がない。最近の人間は現実と呼ぶものの認識が退化しているんだ。安心しろ。史雪は俺が選んだだけあって、かなりマシだ」
「僕がいってんのはそれじゃないよ。あのこいさんが、モフモフでスペシャルラブリーなワンコが、どうして人間になるとこうなるんだよって話」
「可愛くないか? 耳と尾はあるぞ」
そうなのだ。このヒトの形をした存在は小犬丸の垂れた耳をもっていて、それが髪のあいだからひょこっと揺れる。これも甲斐の現実感をおかしくする一因だった。おまけに甲斐の足をふわっと叩いてくるのは、腰の上あたりから伸びている尻尾だ。
「それに今朝の男はピチピチハンサム男子高校生と、俺のことを正しく形容した」
「何が高校生だ。おっさん、中身は何歳だよ?」
イケメンは甲斐の顎をとってにやっと笑った。たしかに顔のつくりは十代だが、眸や口元に浮かぶ表情はちぐはぐな老獪さだった。それが甲斐をぞくっとさせる。心臓の鼓動が速くなる。
「好きに考えろ。俺は神だからな。行くぞ」
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