7.犬と権力

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7.犬と権力

 今朝も寺本紀州のすぐ前で、年配のご婦人が乳母車にダックスフンドを三匹乗せて歩いていた。みっつの頭が交互に籐のかごから伸び縮みする。この老婦人は寺本のマンションから角を曲がってすぐの、金網で囲んだ一軒家に住んでいる。犬たちが庭を駆けまわって遊んでいるのを寺本はたまに目撃する。足を早めて追い越しざまに、彼女が犬たちに話しかけているのが聞こえた。  犬の飼い主はこうやってふだんから犬に話しかけるものなのだろうか、と考えながら寺本は出社した。執務室へ向かう途中でコンフォートルームの出入り口で足を止めると、経営企画部長の成田が大柄な体を丸めるようにして、部屋の一角にある「小犬丸デスク」前で妙な声を出しながら、小犬丸の背中を撫でさすっている。 「こいさん、今日もいい子ですね~」  成田は学生時代ラグビー部でならしたという一見こわもての中年だが、大の男がへりくだるような甘えたような声を発してペット犬を撫でている光景は、この会社では珍しいものではない。そういえば猫撫で声というのに犬撫で声とはいわないのはなぜだろう。  近頃の寺本は、なにかにつけて犬について考えていることが多かった。もちろん株式会社Inu-Merryは、犬のキャラクター「メリーさん」がシンボルのような役割を果たしているし、社内を気ままに歩き回っている犬はただのペット犬以上の存在ではあるのだが。  そう、小犬丸をはじめとした歴代のペット犬は、ただ社員を和ませるためにいるわけではない。社長になる以前から寺本はそれをうすうす察していた。イヌメリでは役職が上になればなるほど「犬」の意味に気づくようになる。いや、逆だ。社内で犬がどれほどの役割を果たしているかに気づいた者の方が、結果的に業績をあげているケースが多く、自然と役職もあがる、という仕組みなのである。  それに他社の人間にたいしては、イヌメリ社内の犬は不意打ちの武器、または偵察隊のような側面があった。人間しかいないと信じている空間に突然「犬」という異種が登場すると、人は多かれ少なかれ、本性をむき出しにするのである。どうやら犬は(少なくともイヌメリ社内の犬は)人間たちが無意識に発している権力の欲望や、それが織りなす網目を正確に読み取っているらしい。  そんないきさつがあったので、現在は会長職になった前社長の秋田健吾から、社長候補の最終選抜を小犬丸にまかせたと聞いても寺本は理不尽だとは思わなかった。とはいえ例によってすこし変だとは思った。だが「わが社はすこしおかしい」と「すこしおかしいからこそ発展できている」のバランスをとることは、イヌメリで管理職以上となった者には必須要件なのである。 「成田さん、小犬丸をそろそろ連れて行くんですが……」  ふいに聞こえた柔らかい声の響きに寺本はドキッとする。コンフォートルームの奥から甲斐史雪があらわれたのだ。 「お、これから何かあるの?」 「就職説明会です」 「そうか。こいさん人気者だから誘拐されないようにね~」 「大丈夫ですよ」  犬が小さく吠えた。奇妙なことに寺本にはその響きは笑い声のように聞こえた。 「こいさん、適当なこというんじゃないよ」と甲斐が続けていう。 「何? 右腕君、こいさんは何だって?」成田が冗談めかしてたずねた。 「俺を誘拐するくらい度胸のある人間はそれはそれで見込みがある、そうですよ」 「はっははー。そうかもね」  甲斐の視線が自分の方へ流れたのに気づき、寺本は急いでその場を離れるとエレベーターへ向かった。  実をいえば、最近の寺本が犬について考える原因は犬以外のところにある。  はっきりいえば先日の帰宅時に砂浜でうっかり目撃したキスシーンを何度も思い出してしまうせいなのである。さらにいえば、キスしていた人間の一方が、犬の横にいる甲斐史雪によく似ていたから、でもある。  寺本としては、あれは甲斐でなはく、他人の空似とか見間違いだろうと思いたかった。たとえうっかりだとしても、仕事で比較的関わりのある社員のプライベートをのぞくのはどうかと思うし、加えてあれがその――男同士だったからなおさらである。  しかし仮にそれが他人の空似だったとしても、それならどうしてあの人影を甲斐に見間違えたのか、とも寺本は考えてしまうのだった。薄暗い中でぼんやり見えた像を自分の頭が甲斐だと判断すること自体がそもそも何か――不穏な何かを意味しているのではないか。それにこれまでも自分は、必要もないのにことあるごとに甲斐を凝視しているではないか。  そんなことを考えはじめると自分の内部に落ちつかない気配がつのってくる。だから最近の寺本は、社内で甲斐をみかけると、できるだけ横にいる犬の方をみて、犬のことを考えるようにしていた。  ところがそうすると、今度は妙な感情が湧きあがってくるのである。甲斐と一緒にいる小犬丸は明らかに、他の社員といるときとはテンションがちがうのだ。甲斐に甘えたりわざとらしくしなだれかか(るように)絡んだり、みるからにわがままをいったり(しているように)みえる。おまけに甲斐が小犬丸にかける言葉も、他の社員が犬にかける言葉の調子とはかなり違うような気がする。 『右腕』職は実質的な飼い主なのだから違うのは当然かもしれないが、甲斐から眼をそらして犬を見ていると今度はそれが気になって、最近の寺本は自分でも説明がつかないモヤモヤに襲われていた。甲斐が小犬丸に愛情あふれるまなざしを向けていると、ときおり苛立ちに近いものを感じるし、報告会や廊下で行き会う小犬丸の、自分に対する態度――尻尾の振り方とか眼つきとかフン、と鼻を鳴らすやり方とか――にも、なんだか含みを感じてしまうのである。  まったく馬鹿馬鹿しい。いったい犬相手に自分は何を考えているのか。  と冷静に考えてみようとしても、いざ甲斐を前にすると妙な気分になってしまうのは避けられず、この前の休日などは、砂浜で小犬丸を連れた甲斐に気づかないふりをしたくらいだった。  砂浜のキスシーンの主が甲斐でない可能性は非常に高いが、だったらなおさら、こんな風に意識するのはまずい。たとえ妹の(さい)がなんといおうとも、生まれてこのかた同性に興奮する人間を(自分以外には)知らない寺本には、実在の人物におかしな妄想をもつのはたわけたこととしか考えられなかった。さらにこんなたわけたことで、集中が途切れるのも困ったことである。  集中力が途切れがちなときはヨガが一番だ。  というわけで、寺本はその晩自宅に帰ると、いつもより長めのヨガタイムをとった。今夜はいつものシークエンスをこなすだけでは足りない気がして、少し難易度の高いバランスに挑戦する。たとえばこれ「鶴のポーズ」だ。まず、両足をそろえて立った姿勢から前のめりにしゃがみ、両ひざを上腕につけた状態で、手首と腕の力で下半身を持ち上げるのだ。その姿勢で何度か呼吸をくりかえしてから、さらに肘を曲げ、片足を斜め後ろに伸ばす。「片足のカラスのポーズ」である。  伸ばした足のバランスを保つのは大変である。難易度の高いポーズをくりかえすと、意識はそれにかかりきりになり、無心になる。  ――はずなのだが、どうもうまくいかなかった。しまいに寝そべって「死体のポーズ」をとり、マンションの天井をみつめていても、またも意識がちらちらと先日目撃した夜の砂浜、あのワンシーンに戻っていく。  今日の午後は恒例の広報からの週一報告があり、ごく普通に甲斐と話をした。その時は何も思い出さなかったのに、また自分の頭は勝手に、口づけしていた男のひとりに、甲斐の顔をあてはめている。  まったく、どうかしている。  いくら経験がないからといって、自分は()()()()()()に免疫がなさすぎるのだろうか。柴がからかうのも無理はないのかもしれない。妄想で苛々しても意味はない。  寺本はあきらめてパソコンの前に座った。ヘッドホンをつけ、ネットで海外ゲイビデオのサイトにアクセスする。サムネールを何本か眺めていると、まるでヨガのポーズのような姿勢で裸の男が絡んでいるものが目につく。ペアヨガ、という言葉が頭に浮かぶ。ペアでやる柔軟体操のようなもので、色気もへったくれもないが、これですら自分にはきっと一生、縁がないだろう。  そう思うと空虚な気分が襲ってきたが、寺本はサムネ画像をスクロールし、見覚えのある男優が出演している動画をクリックした。  画面にキャビネットとデスクと応接テーブルが並んだ重役室らしき部屋が映る。隅に立つ女性の秘書とスーツの男がふたり。ふたりの男は最初ははす向かいに、少し離れて座っているが、秘書が出ていったとたん、話しながら距離をつめはじめる。最初は握手。女性秘書が隣の部屋にいるので、男たちは何も言葉にはしない。だが次に……  ――誰にいいふらすつもりもないが、実は、オフィスでのシチュエーションが寺本の好みなのである。商談をしていたはずのふたりが視線で会話していたかと思うと、ふいに濃厚なキスを重ねて抱きあうとか、キスのあいだにゆるめられたネクタイとはずしたワイシャツのボタンから素肌をチラ見えするとか、コトに及ぶために都合のよい広さの応接テーブルに押し倒すとか、テーブルが狭すぎるときは折り重なった拍子に椅子から床にずり落ちるとか、そういったシチュエーションが好きなのだ。  床に倒れた衝撃でテーブルから小道具が転がり落ちたり(さらにその小道具を愛撫に使ったり)そうこうするうちに押し倒された相手はほぼ裸に剥かれているのに、腕時計と靴下だけはつけていたりするものもよい。革のバンドが嵌った手首を絨毯に押さえつけ、もう一方の手で相手の下半身をまさぐって……  と、そのとき寺本は、昼間の報告会のときちらりと見えた甲斐の手首を思い出した。タブレットを持ち上げたときにワイシャツの袖が下がり、スポーツタイプのごつい腕時計がのぞいていた。骨張った手首に巻きついた太めのバンドが袖口からのぞいた様子が妙に色っぽく……  パソコンの画面をみながら寺本の吐息は熱くなった。片手はとっくの昔にスウェットの中に入っている。もちろん実際のオフィスでこんなことをしたいなどと思ったことはない。ないのだが……  放出した瞬間に寺本の脳内にあったのは、画面の安っぽいセットではなかった。社長に就任して数か月のあいだに馴染んだ現在の執務室と、甲斐の静かな声音だった。  ひょっとして私は――まずい状況に陥っているのではないだろうか。  射精後の漂うような解放感のなかで、寺本はふとそう思った。
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