1.犬について

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1.犬について

「うわぁ、可愛いなあ」  〈彼〉をひと目見ただけで、インタビュアーの男はだらしなく頬を緩ませた。 「これまでもウェブやTwitterで写真を見ていましたが、本物は想像以上ですね! あの……触っていいですか……?」  そりゃあ可愛いだろう。当たり前だ。  ――と、甲斐史雪(かいふみゆき)は思ったが、もちろん口には出さなかった。まっすぐこっちをみつめてくる彼の黒い眼も、垂れた耳も、ふんふん嗅いでくる湿った鼻も、全身を覆うつやつやの赤みがかった毛も、当然可愛さの極致であり、それは全世界公認である。犬の姿の彼を可愛くないなんて思う人間は端的に「人でなし」である。少なくとも甲斐のなかでは。  とはいえ、それをあからさまに態度に出すのは賢明とはいえない。なにしろ甲斐は株式会社Inu-Merry(イヌ メリー)――国内ではあっさり「イヌメリ」と呼ばれることが多い――の社長専属広報であり、Twitter公式アカウント「メリーさん」の中の人だ。可愛いといわれて浮かれた対応をするのは最善ではない。  重要なのは爽やかさと謙虚さだ。謙虚にね、押しつけがましくなく。  などと心の中でくりかえしつつ、甲斐は真面目くさった顔で答える。 「彼が許可してくれれば大丈夫ですよ。普通は許してくれます」 「許してくれないことがあるんですか?」  インタビュアーは心配そうに眉をよせた。久下(くげ)という丸顔の大男で、ネットメディアで活躍しているライターだ。若い層にヒットするユーモアのある記事を書くことで定評がある。  甲斐は軽くうなずいて続けた。〈彼〉が登場する取材では、相手が誰であってもまずこのエピソードを披露すると社内で取り決めてある。 「一度だけ、御社のようなウェブメディアの取材で、いらした記者さんに彼がものすごく不機嫌になってしまったことがありました。僕も困ったんですが、こちらはあくまでも彼に出てくれとお願いする立場なので、無理に愛想よくしてもらうこともできません。もっとも彼とのコミュニケーションがうまくいかなかったので、その取材は早々にお引き取り願うことになりました」 「えっ……そうなんですか」  インタビュアーは眉をしかめ、すると面白いくらいひょうきんな表情になった。 「そんなことになったら困るな」 「いえ、普通は大丈夫なんです。この話は先があるんです。彼がその記者を気に入らなかった理由はあとでわかりました。くだんの記者はそれから間もなくセクハラとストーカー行為で逮捕されたので」 「えっ!」 「おかげでその記事はボツになりました」 「うわっ……」  久下は大げさに肩をすくめ、少し離れて立つカメラマンにちらっと視線を向ける。カメラマンは大男の久下と対照をなすような小柄な美人の女性である。 「何ですか、嘘発見器みたいな……いや悪人発見器? もちろん私はそんなけしからん人間ではないと――少なくとも身に覚えはないですよ! いや、心の中であの子可愛いなとか、胸大きいなとか、そのくらいは思いますけど……ね? 八木さん」 「まだ私に見せていない本性があるんですか?」とカメラマンは笑いながら久下にいう。 「まあ、大丈夫ですから」甲斐はすこしだけ微笑んだ。 「リラックスしてください。小犬丸、今日のインタビューを担当される久下さんです」  それを合図にしたようにおとなしく足元に座っていた〈彼〉はふんふんと久下をを嗅ぎはじめる。くりくりした瞳がすこし細められ、濡れた鼻先が揺れる。 「うわぁ……ほんと可愛いわ。触らしてくれる? いい?」  久下は感極まったような声をあげ、そっと彼の頭を撫でた。小犬丸はレトリバーの血を引いた雑種である。長めのふさふさした尻尾をゆるりと振りながら靴、そしてスラックスを嗅ぐ。そしてしゃがみこんだ久下が伸ばした指先をぺろっと舐めた。 「うーん、いい子ですね――ん? ん? おい、」 「ああ、すみません」  今度は小犬丸は久下の股に頭をつっこみ、中央のふくらみを嗅いでいる。 「ごめんなさい。女性なら止めるんですが、久下さん男性ですし……犬にとっては匂いは大事な情報源で、股間はとても重要なんです。エッチな気分でやってるわけじゃありません」 「あ、そうなんですかー」  久下は股のあいだに犬の頭を入れたまま困惑した顔でアハハと笑った。 「てっきり俺のエロい性癖がバレたのかと思いましたよ」  甲斐は冷静さを保ったまま穏やかにいう。 「犬たちの挨拶の多くは人間が恥ずかしいと思う場所を嗅ぐことなんです。犬は匂いでコミュニケーションをとるんですよ。股間や腋の下のようなところは匂いが強いですからね。散歩で出会った犬同士がおしりを嗅ぎ合ったりするのはそのせいですから、お許しください。それにこれで彼も久下さんのことを覚えたと思いますし」  そうやってわざわざ解説を加えたにもかかわらず、小犬丸は久下の股間を嗅ぎおわると急に興味をなくしたように頭をそらした。もっとも久下本人はさらに頬をゆるめて犬の頭をそっと撫でている。とりあえずこのライターは合格だと甲斐は思う。小犬丸はこの場では沈黙しているが、久下を見上げるつぶらな瞳の様子なら問題はない。  と、そのときシャッター音が響いた。小犬丸はフンフンと鼻を鳴らし、ついで小さく「ワン」と吠える。甲斐の視線の先でカメラマンの女性は一瞬引いたようだったが、またシャッターを押した。 「はじめましょうか。今日は、わが社でこの子が果たす役割についての取材をと伺っていますが……」  甲斐は資料を並べたテーブルにあらためて久下を誘導した。インタビュー用にディスプレイパネルで仕切ってあるが、この大きな部屋は社員共有の息抜きスペースだ。暖色系のインテリアでまとめられ、今彼らが取材を受けているテーブルや椅子が並んだ区画のほかに、食べ放題のお菓子カウンターや立ったまま仕事ができる椅子なしのカウンターテーブル、バランスボール、巨大なビーズクッション(別名「人をダメにするソファ」)、一人用トランポリンなどが低い仕切りのあいだに設置されている。  休憩は各自適当に取ってよいとされているが、さすがに始業から間もないこの時間には人影は見えない。テーブルにはさきほど交換した名刺がきちんと並べてある。久下はペンを片手にノートを開き、ICレコーダーのスイッチを入れた。小犬丸の耳が揺れ、とことこと歩いて人間から離れたところに立つ。久下は小犬丸からやっと注意をそらした。  そこで甲斐は軽いジャブからはじめる。 「久下さん、最初にお断りしておかないといけないんですが、小犬丸はただのマスコットではありません」 「というと?」 「もちろん社員全員にペットとして愛されていますが、彼はれっきとした弊社の役員です。ただし犬なので、名刺はありません」 「その『役員』というお話、ブログにも出ていましたが、どういうことでしょう?」 「小犬丸の役職は専務取締役です。もちろん動物愛護法にのっとった扱いになっています」 「専務?」 「はい。そして小犬丸より地位が高い役員は、四人しかいません」 「四人? 犬より偉いのが?」 「そうです」  向かい合って話す男たちをよそに、小犬丸は仕切りぞいをくるりと回って小走りに戻ってくると、テーブルの下に潜りこんだ。スラックスに鼻づらが押しつけられるが、甲斐は無視して続けた。 「基本的な話ですが、会社組織にはヒエラルキーがあります。また個人の職務や能力に即した序列、ランクがあります。営業成績や、立てた企画によって売り上げが伸びたか、長く業務に従事していて経験がある、たいていの会社はそういった事の積み重ねでランクを決定しますし、これが給料やボーナスに反映されますよね。すくなくとも建前ではそうなっているはずです」  久下はふんふんとうなずきながらメモを取りはじめた。急に堅い話になったせいか、表情が引き締まる。 「ランクづけは社員の間にやる気や競争意識を生みますし、社内に良い意味での緊張感つくり、雰囲気を活性化します。これは良い効果ですが、逆にマイナスの効果となる場合もあります。自分が正しく評価されていないと社員が感じた場合ですね。この原因の一部は評価システムにあります。評価するのは人間ですが、ご存じのとおり人間というのは公平ではありませんし、全能でもありません」 「まったくその通りですね」と久下は相槌を打った。 「だから『あいつは俺より偉くて優秀と思われているが、それは正しいとは限らない、あいつを評価した人間が正しいとは限らないからだ』と人は思いがちなわけです。そして、その考えが当たっている場合も往々にしてあります」 「たしかに」 「正しく評価されていない、また評価が報酬に反映されていないと感じる社員がふえると、どうしてもやる気は落ちてきますし、人間関係もギスギスしがちです」 「そうですね」 「そこで」  と甲斐は落ちつきはらっていう。「犬の出番です」 「はい?」久下はぽかんと口をあけた。 「実は弊社では、小犬丸より偉くなるには事実上、社長になるしかないんです。だから『あいつは俺より評価されているが、しょせん犬よりは下だ』と社長以外の全員、思うしかありません。それに犬は実に観察力が鋭く、人間をよく見ています。セクハラ記者を小犬丸が見抜いた、といいましたが、おかしなことがあるとすぐに気づくんです。なのでここでの人事は、最終的にこの犬が承認するまで、認められません」  久下の顔をみつめながら、甲斐はさらに先を続ける。 「そんなわけで、歴代社長も代々の犬の承認を受けています」 「ほんとうに?」  インタビュアーは困惑した表情だった。ここでやっと甲斐は笑った。 「――というのはだいたい、嘘です」  たちまち緊張がほぐれた。  久下の足元で小犬丸の振った尻尾がぱたぱたと足に当たっているから、そのせいもあるだろう。 「嘘じゃないところもあるんですか?」  畳みかけてきたインタビュアーに甲斐はまた微笑んだ。 「あいにくその詳細については、企業秘密です」
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