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「あれは視神経接続を促進してこの固定弁を引き締める奴。でないと義眼が外れ易くなるし、視線も視点も定まらねぇんだ。緩滑蜜にも視神経接続の促進成分は入ってんだけどこっちは逆に固定弁を緩める為の物。固定弁を緩めて入れやすくして、眼窩にしっくり来たら潤滑水で引き締める。粘度もあるから義眼を入れる時にはこれを使うんだよ」
「ふーん…」
長々と語るグリチーアの説明を全て聞き流しながら、鳶は壜の蓋を開けて匂いを嗅いでみる。特に匂いはない。手に少し出せば緩い蜜の様な液体が出て来た。
舌で舐めればビリリと苦い。
「うぉぇ。何だこりゃ」
「鳶。遊ぶな。食用じゃねぇんだぞ」
「へいへい」
ペッと舐めた潤滑蜜を洗面器に吐き出して、潤滑蜜のついた指を手拭で拭き取り。
「閉めるぞ」
「おう」
風呂場の扉を閉めて、部屋の窓を開けた。下の街並みは賑やかで上の空模様は涼やかで。緑色の空は快晴だ。
「グリ」
「んー?」
風呂場の扉越しにグリチーアの声が聞こえた。
「今日はこの後どうする?」
「新聞を買う」
「でっすよね」
「出立したのが昨日の朝なら、今日の朝刊にはもう広告が出てるはずだ」
「じゃあ、俺が行く。グリ、もう少しかかるだろ」
「いや、ちょっと待ってろ。右は入ってんだけど、左が入ら、なっ、いってぇ!」
「行ってくる。財布取るぞ」
「待てって鳶!」
右に義眼を入れて左を手で覆ったままのグリチーアが風呂場から飛び出した。
「お前は一人で街を出歩くな」
「はぁ?でも、」
「駄目!また喧嘩とかされたら困るし、スヴァリグルは掏摸が多いんだ。危ないから絶対に駄目!」
「…掏摸はともかく、喧嘩するって点に於いて俺にはもう一切の信用がないんだな」
「当たり前だろ!」
バタン。
捨て科白と共に風呂場に引っ込む。
一切の信用がないのは当たり前。そんな事を言われてしまえば、最早勝てない。鳶はふてくされながら寝台に寝転がって。
グリチーアの左の義眼が填まるのを待つ外なかった。
「だって、俺の背広を言値で買うとか言ったんだぞ…」
鳶の独白に返答は来なかった。
両の眼窩に義眼を填め終えたグリチーアが風呂場から出てきたのは、それから十分程経ってからだった。接続がまだ不安定なのか米神を掌で押さえながらふらふらと歩くグリチーアに、
「いっつも左に手こずるな」
「左だけ、骨が少し欠けてんだ」
経緯など聞かずとも判る。グリチーアの頭痛が収まるのを待ってから。鳶は衣紋掛の背広を羽織り、羽織の衣嚢に小さな壜と白い硬筆、煙草と燐寸を入れて。グリチーアは鞄から財布を取って尻の衣嚢に押し込んだ。
部屋の扉を開けて十二段の階段を降りる。若熊猫主に今から出かける旨を伝えれば、「いってらっしゃい」と送り出された。
「…さーて」
「雑貨屋か?」
「おぉ」
雑貨屋自体はすぐに見つかった。
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