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他愛ない記事に紛れた、小さな広告。
次の情緒に赤菜の平原。
さんごの向こう側。
口吸いの蜂蜜。
全て平等に分け隔てなく別けて。
ドクトル・スベニール
「次の偽名はスベニールだ。覚えたな?」
「この描いてある瓶、何だ?酒か?」
「香水」
「香水?何それ?」
「主に人間の為のもんだな。強い香りを持つ液体で、人間は強い体臭を嫌うからそれを誤魔化す為につけるんだよ」
「風呂入ればいいだろ」
「そうもいかねぇよ。水が少ないから風呂に入る余裕がない国だってあるし、迷信で風呂を嫌う国もある。そうじゃなくても僅かに香る程度の匂いで印象変わるからな。化粧と大差ない。それこそが、問題なんだけど」
「…どういうこと?」
「ここは国民の九割が猿のヌマハット。そもそも猿だけじゃなくて、獣は体臭で個を認識する。香水なんかつけたら誰が誰だか分からねぇだろ。需要も何もねぇよ」
「……つまり?」
猿の国であるヌマハットの新聞に、香水の広告を掲載する事自体がおかしいのだ。
「…人も獣も面倒くさ」
「まぁ、集団で生活している以上、個の認識は必要になってくるんだよ。それは種の保存による本能じゃねぇか?」
「そういうもんか」
「俺がお前を鳶と呼ばせてもらってんのも、それによるもんだ」
「………」
やがて店内からルーナス医師が盆を手にグリチーア達の席へとやってきた。木製の盆の上には茶器一式と、赤い蜜の様な液体の入った小さな器が乗っている。
「お待たせしました」
「いえ」
グリチーアは机に広げていた新聞を畳んで、ルーナス医師に茶器を置かせた。
「実はこの店は私のお気に入りでして。往診帰りによくここで道草をするんですよ」
「何を頼んだんです?」
「ふふふっ。これは」
ルーナス医師が茶器の蓋をぱかっと開けると、茶の香りと甘い果実の香りが綯交ぜになった湯気が立ち上る。
「野苺茶です」
「…野苺」
ルーナス医師が柔和に笑む、その口元から覗く牙が鈍く光った。
「いやはや。なにぶん、冒険などが出来ない性分でしてね。結局、いつもの物を選んでしまうんですよ。これは茶葉と乾燥させた野苺の実を混ぜ合わせた物なんですが、私はこれに薔薇の煮汁を入れるのがお気に入りなんです」
「…薔薇?」
スゥッと豆柄茶色の毛むくじゃらな前肢に覆われた太い爪が繊細に赤い蜜の様な液体の入った器を摘み上げた。
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