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鰐と義眼と広告標
「ヌマハットだ」
水で薄めた蒸留酒を飲んで左の眼頭を押さえながらグリチーアは行き先を告げた。
「ヌマハット?」
「あの猿の国ですかい?」
葡萄の皮を剥こうとちまちまくるくると果実を前足で回しながら問うミケの言葉に、グリチーアは無言で肯首して。
「やってやろうか?」
「子供扱いはやめてくだせぇ旦那。この位ちょちょいのちょいと、」
「さっきからずっとその実と戦ってんだろうが。見てて苛々すんだよ。貸して」
ひょいとグリチーアはミケから葡萄の実を奪って、呆気なくつるりと剥けた実を小皿に乗せた。
「…へぇ、どうも」
「鳶はヌマハット初めてだろ?」
鳶、と呼ばれた鰐革で作られた背広を身に纏う青年は、飲んでいた麦酒の杯を食事台の上に置いて。
「名前自体、初めて聞いた」
「そんなに大きな国じゃねぇな。国民の九割が猿。残りの一割が猿以外の獣。人間はほぼいないな。七十年だか八十年前に、マブアートに戦争吹っ掛けて呆気なく負けた事があって。今も老猿は人間嫌いが多いらしい」
「…マブアートに喧嘩吹っ掛けるたぁ、怖いもの知らずな国でさぁ」
「まぁ、若い猿の中には戦争があった事すら知らんって奴もいるし。基本、歓迎するのが好きな種族だな。割と観光にも力を入れてるし、飯も美味いぞ」
「義眼の旦那。次はヌマハットに行くんですかい?」
料理を手に熊猫の宿主がグリチーア達の食事台の前に立った。
「炒米と鶏肉の素焼。香菜の盛り合わせです。お待たせしました」
「おっちゃんはヌマハットに行った事あんの?」
炒米に手を付けたグリチーアの問いかけに、熊猫宿主がにこやかに笑って。
「私はありませんが父の弟の従妹の姪の息子がヌマハットで宿をやってるんですよ」
「相変わらずだな…」
「ヌマハットは客応答に厳しい国ですからね。結構鍛えられてる様です」
「飯はおっちゃん所が一番美味いけどな?」
「おや嬉しい事を仰る。義眼の旦那。煽てられても割り引きませんよ」
「いや、今日は狐の奢り」
「ほぉー?どうした?元、友達売り。この旦那方に借りでも出来たのか?」
「ま、そんな所でぇ」
鶏肉の素焼に齧り付いたミケに。熊猫宿主は
「じゃあ、無職になった元友達売りに恩を売っといてやるか。この葡萄を、もう一房つけてやるよ」
「粋な心意気は有難ぇが皮を剥いてくれねぇかい。渋くて渋くて。このままじゃ食えやしねぇ」
「ったく、しょうがねぇ。我儘なお客様なこった」
「おめえこそヌマハットで修行しろってんでぇ」
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