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「光希坊っちゃま。ご家族様皆、坊っちゃまを心配してお帰りを待っておられます。今からでも遅くありません。帰りましょう」
「…………」
喜子さんの意を決して放った一言にも、光希坊っちゃまは表情を変えませんでした。
「私、ここまで歩いて辺りを見て参りました。お言葉ですが、ここは、その……駅からも遠くて寂れているし、あまりいい所とは言えません。周りにこれといって何かがあるというわけではないではないですか。やはりお家賃ですか? 坊っちゃまは、どうしてこの場所をお選びになったのですか?」
喜子さんは少し語気を強めていました。
もちろん光希坊っちゃまが心配だからというのもあるでしょうが、喜子さん自身、光希坊っちゃまに帰ってきてほしい──光希坊っちゃまが居なくて淋しいという思いがあったのかもしれません。
そんな思いがあるからこその必死な説得。
だけど光希坊っちゃまは柔らかく笑って、またものらりくらりと躱すのです。
「ひどい言い草だなぁ。その寂れた商店街で僕は働いてるのに」
「あ……申し訳ございません。ですが──」
「何もないわけじゃないよ」
畏縮する喜子さんの言葉を遮るように。
「何もないわけじゃない」
もう一度、光希坊っちゃまは喜子さんの目を見て言いました。
「寂れてるとはいえ商店街には色々あるし、生活に困る事は何一つないよ。自転車で高台まで走らせれば展望台から壮観な景色だって見られる。それに──」
ぽつりぽつりと話し、光希坊っちゃまは一旦言葉を切ります。
「──ねぇ、喜子さん」
「……はい」
喜子さんは不思議そうに、光希坊っちゃまを見つめました。
「覚えてる? 小さい時さ、喜子さん、僕を動物園に連れていってくれたよね」
「え?」
話の流れから逸脱する突拍子のなさに、喜子さんは目を丸くします。
「ねぇ、喜子さん」
「……はい」
──ウルルを、覚えてる?
光希坊っちゃまは、小さい頃のある出来事を語り始めました。
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