月詠命と老婆

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 月詠命(つくよみのみこと)は、今日も分社を回っていた。  神無月を除いて、ほとんど毎日のように分社を回っている。本殿よりも分社に来るものの方が、己の権能について知っていることが多いからである。  日本神話において、月詠命の出番はほとんどないと言っても過言ではない。兄弟とされる天照大御神(あまてらすおおみかみ)須佐之男命(すさのおのみこと)と比べると、影が薄いと言われている。もちろん主神として(まつ)られている神社は多くあるものの、今の日本では御祭神(ごさいじん)を気にする者は少ない。むしろ、縁結び、学業などなど、様々なパワースポットとしての扱いでしかない。  恨みつらみをぶつけられることも多く、願い事は耳にタコができるほどに聞かされる。本来であれば、人が神に感謝をし、神がその権能(けんのう)を以って応えるのが正しい形である。加えて、権能は人にのみ使われるものでもない。生きとし生けるものすべてのために行使される。  そこまで理解しているものが多く訪れてくれるのが、小さな分社であることは神である身としてもなんとも言葉にできない気持ちになる。 「月詠(つくよみ)様、本日もありがとうございます。おかげで良い夢が見られております。」 中秋の名月が近いころ、毎日、とある分社に訪れる老婆の声が届いた。月詠は身をひるがえしてその分社にひらりと舞い降りた。どことなく、いつもより元気のない声に聞こえたのである。 決して、毎日訪れてくれる信者だからと言って、ひいきではないとも。 「一体どうしたのだ。」  届くことのない声を発する。 「あら…?」  届くはずのなかった声。 「貴様、まさか私の声が聞こえているのか。」 「あらまあ、幻聴かしら。声が聞こえるわ。」 「失礼な。幻聴ではない。私こそ、月詠命(つくよみのみこと)である。」  思わず名乗ってしまった。人口が増えた結果、神々の間の暗黙の了解で、人間に名乗ったり、姿を見せたりしてはいけないという決まりがあった。それを破ってしまったが、もうどうでもよいと、言葉を続ける。 「貴様、病を患っているな。私のところに参詣したところで、平癒(へいゆ)はせぬぞ。」
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