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第3章
(1)
俗世との繋がりを断ち切るように、その場所は、高い板塀に覆われている。
周囲に巡らされるのは、幅5間にも渡る堀。
鉄漿溝と呼ばれるその堀から、一体の仏が上がった。
『なあ、おめえさん、もう聞いたかい? 今朝がた羅生門河岸でよ、遺体が上がったってんで、いま、その話題で持ちきりよ』
かけられた馴染みの妓夫の言葉に、ふと、嫌な予感がよぎる。
引き上げられた、たかだか仏一体が、なにゆえ持ちきりになるほど人の口にのぼっているというのか。
『身投げか、足ィ滑らしたんだか。いずれにせよ気の毒なこったね。一時は吉原随一の大見世の御職にもなろうかって期待されてた昼三がよ』
男の胸の裡で、心の臓が大きく跳ね上がった。
――まさか……。
『気が触れてたってぇもっぱらの噂だったからな。かぇえそうに。けど、こうなりゃ、けぇって幸せだったかもしんねぇなぁ。器量よし、気立てよし。楼主も相当入れこんで、掌中の珠ってぇぐらいに大事に育て上げたってぇのに、あっというまに切り見世の局まで落ちちまったんじゃあね。人間、なにがあるかぁわかんねぇやなぁ』
途中から、男の耳にはなにも届いていなかった。
――バカな。そんなまさか……。
思うそのそばから、強い後悔の念が押し寄せる。
細いうなじ。華奢な身体付き。
俗塵にまみれることのない質朴さが好ましかった。
なぜ……。
苦い痛みが胸を裂く。
手折られた枝は、もう二度とはもとへ戻らない。
バカな真似を。どうして――……!
男はただ、胸の裡で心を掻き毟り、泣哭した――
【注釈】
※鉄漿溝…吉原遊郭を囲う堀
※羅生門河岸…鉄漿溝沿いにあるふたつの河岸の一方。最下層の遊女のいる見世が連なる地区。
※妓夫…遊郭で働く男。客引きや護衛など。
※御職…御職花魁。その見世でもっとも売り上げの多い遊女。
※昼三…張り見世(店先に並んで客を待つ)をせず、呼び出しのみで客を取る最上位の花魁
※切り見世…最下層の女郎屋。
※局…局女郎。切り見世の女郎。一切百文(10分千円~2千円)。
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