第五章 エール

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第五章 エール

赤マルをつけたカレンダーが壁にかかっている。それは、誠が受験する大学の試験日。 本人は、気を遣わなくていい、と言ってくれたけれど、やはりそういう訳にはいかない。だから、年が明けてからは彼が集中できるよう、会うのを控えている。 藍は小さなため息をひとつついて、目の高さに飾った誠からの絵へ顔を向けた。 ―風の色って何色だと思う? ふと、誠の声が耳の奥に蘇る。 そう。それは、中学生のころ、どんなに練習しても記録がまったく伸びない、いわゆるスランプに陥っていたときのこと。 「いや。まぁ、「透明」って言うのが一般的なところなんだけどさ。」 藍を含めた数名の部員から、微妙な視線を向けられた誠は自分で答えを示した。 ちょっと、楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。 「そういう、目に見えないものに俺たちは色をつけたり。形を与えることができる。自分の感じた「世界」を自分で彩れるのは絵描きの特権、ってかさ。わくわくしないか?次はどんな風を描こう、とか考えたら。」 筆を置き、笑みを浮かべた誠が全員を見回す。 その瞬間、美術部の部室を、さぁっ、と違った風が吹き抜けた。 「もちろん、楽しいだけじゃないし、やっていけない。けど、ぶちあたった壁を乗り越えた先には、また違う「世界」が待っているはずだからさ。あがいたりするのも、その一部だとしたら、努力を忘れた「世界」はきっと味気ない。上は目指し続けないとな。」 とくん、と。藍の胸が鳴った。 カンバスをまっすぐ見つめる真摯な瞳と凛々しい横顔。誠の、絵に対する想いが伝わってくる。 「はいっ。」 他の部員たちも感じるところがあったのか、声をそろえて頷いた。 そして気持ちを引き締めた表情でそれぞれの「世界」へと戻っていく。 「そういう意味も含めて、俺は樋口がうらやましい。」 たまたま隣のイーゼルを使っていた藍は、その一言にあわててしまう。 どうにか心を落ち着け、顔に出ないように注意しながら彼の方を見る。 「景色が速く流れる「世界」を知ってるだろう?」 目で意味を尋ねた藍は、誠のことばにそっと視線をそらした。 陸上部の活動はほとんど隔日。 かろうじて練習がある日にはそちらへ行っているものの。記録が伸びず、走ることが楽しいと感じられない今の状態では、そんな風に言ってもらう資格はない気がする。 「…今度さ、描いてくれないか?」 「え?」
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