0人が本棚に入れています
本棚に追加
/12ページ
思いがけない、呟きのような問いかけに、藍はもう一度彼へ顔を向ける。
「どんな風が吹いて、どんな音が聞こえるのかをさ。絵で教えてくれ。」
俺じゃどうやってもたどり着けない「世界」だから。と。他の人たちを邪魔しない声量で述べる誠も、もう筆を動かしている。
そんな風に言う理由を知っているので、彼の要望には応えたい。けれど。
(せめて、調子がいいときならよかったのに…)
藍は、自分の握っている筆へ視線を落としてしょんぼりする。
だめだ。
こんな気持ちではいいものは描けない。絵に、画材に対しても失礼だ。
「記録とか、そういうの全部抜きにして、音をスケッチするつもりで走ったら、なんが面白そうだよな。」
静かに、しっかりと誠が述べる。
そのことばに、藍は目をぱちくりさせた。
もしかして、彼は藍の不調に気がついているのだろうか。
「樋口はさ。樋口の風をつかまえればいいんだよ。そしたらちゃんといいものが描ける。」
ちらりと誠へ向けた目が、一瞬、絡む。
それは、藍を気遣う瞳。
「耳、いいもんな、樋口。」
自分の耳を指さしながら誠が笑う。
また、藍の胸を風が渡っていく。さわやかな風が。
楽しみにしている、と。屈託のない彼の笑顔鵜に背中を押された気がした。
応援の声があちこちから聞こえる。
新人戦のフィールド。
天候不順のおかけげで、まともに立つのがこの場になってしまった。
深呼吸をしても、胸の音が収まらない。こんなことは初めてで、藍は自分が緊張していることに気付く。
自覚すると更に体が強張って軽く混乱してきた。どう、走れば。
「藍っ。」
耳に飛び込んできたのは、誠の声。ピンポイントでそちらへ顔が向く。
目が合うと、誠は胸の前で上向けるた手をそっと握り、くるりと返して藍へ突き出した。
それだけで。周りからよけいな音が消える。
さっと開けたような気がする視界の先で、ふわふわと揺れる真っ白なゴールテープ。風が、そこにいる。
「位置について。ヨーイッ。」
最初のコメントを投稿しよう!