第五章 エール

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思いがけない、呟きのような問いかけに、藍はもう一度彼へ顔を向ける。 「どんな風が吹いて、どんな音が聞こえるのかをさ。絵で教えてくれ。」 俺じゃどうやってもたどり着けない「世界」だから。と。他の人たちを邪魔しない声量で述べる誠も、もう筆を動かしている。 そんな風に言う理由を知っているので、彼の要望には応えたい。けれど。 (せめて、調子がいいときならよかったのに…) 藍は、自分の握っている筆へ視線を落としてしょんぼりする。 だめだ。 こんな気持ちではいいものは描けない。絵に、画材に対しても失礼だ。 「記録とか、そういうの全部抜きにして、音をスケッチするつもりで走ったら、なんが面白そうだよな。」 静かに、しっかりと誠が述べる。 そのことばに、藍は目をぱちくりさせた。 もしかして、彼は藍の不調に気がついているのだろうか。 「樋口はさ。樋口の風をつかまえればいいんだよ。そしたらちゃんといいものが描ける。」 ちらりと誠へ向けた目が、一瞬、絡む。 それは、藍を気遣う瞳。 「耳、いいもんな、樋口。」 自分の耳を指さしながら誠が笑う。 また、藍の胸を風が渡っていく。さわやかな風が。 楽しみにしている、と。屈託のない彼の笑顔鵜に背中を押された気がした。  応援の声があちこちから聞こえる。 新人戦のフィールド。 天候不順のおかけげで、まともに立つのがこの場になってしまった。 深呼吸をしても、胸の音が収まらない。こんなことは初めてで、藍は自分が緊張していることに気付く。 自覚すると更に体が強張って軽く混乱してきた。どう、走れば。 「藍っ。」 耳に飛び込んできたのは、誠の声。ピンポイントでそちらへ顔が向く。 目が合うと、誠は胸の前で上向けるた手をそっと握り、くるりと返して藍へ突き出した。 それだけで。周りからよけいな音が消える。 さっと開けたような気がする視界の先で、ふわふわと揺れる真っ白なゴールテープ。風が、そこにいる。 「位置について。ヨーイッ。」
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