春 初夏 小雨

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 オリがカウンターに本を置いた時、手元から貸出票が落ちた。ハナオはそれを見逃さなかった。貸出票を拾い、見る。オリの名前が書かれた貸出票。オリの書く字はとても綺麗だった。整った綺麗な文字だった。ハナオはオリに貸出票を手渡した。オリは首をひねり目だけでハナオを見て「ありがとう」と言った。小さな声なのに芯の通った声だった。ハナオはいいえとだけ応えた。指に触れるには、貸出票の形は長すぎた。  オリはハナオの視線に気が付いていた。転校してきた日から、その目が自分に向けられていることに、オリは気が付いていた。だから、わざと貸出票を足元に落とした。自分の後ろに立っている男子生徒がどんな人か、少しだけ興味があった。正直、愉快ではない。不快に思った。転校生の私を興味本位で見ている下級生がいる。春の穏やかな日差しの中にまっすぐ向けられる視線。ただ視線の持ち主は思いのほか誠実な人のように感じた。根拠はない。ただ、今、自分が父と呼んでいる男性とは違うと思った。そんなふうに思うことがどれだけ愚かなことかわかっている。――今の父とは違う。オリはその思考が危険なのがわかっていた。10代のオリは一般的な女子高生なら感じなくてよいことを母との関係を通して感じていた。     
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