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彼の挨拶はいつも、「おはよう」だった。 「ごめん、遅くなっちゃった」 「遅くなるも何も」 ここは私の夢の中だし…、と言いかけて、私は口をつぐむ。 私は夢の中で、これは夢だとわかっている。けれども、それを伝えたくはなかった。 夢が――彼が消えてしまうことが、怖かった。 彼はいつも窓枠に腰掛け、不思議な話をした。現実にはあり得ない、どこか遠い世界の話。私はそれをうんうんと頷いて、相槌を打つ。 夕日に照らされた彼の表情はひたすら穏やかで、現実でこんなに優しく自分に笑いかけてくれる人などいないとわかっている私にとって、それすらも夢のように儚く感じられた。 「…で、そっちはどう?」 一通り話し終わると、彼は必ずそう訊ねてきた。 「…いつも通りだよ」 そして私は毎回、そう返すと誤魔化すように窓の外を眺める。 …いつも通り。 変わらない、変える勇気もない毎日。絶望と悲しみと惨めさとで、うまく言い表すことができない。だから私は、いつもそう答えていた。 そっか、と彼は優しく言うと、やっぱり私と同じように窓の外に目をやった。夕焼け空は徐々に色を変え、瑠璃色の面積が大きくなってきている。 …完全に夜になる前に、いつも私は目覚める。夕焼けの終わりは、夢の終わりを表していた。 「…本当にピンチになったら、俺のこと呼んで」 ぽつり、と彼が呟く。私は焦って、彼のことを呼び止めようとする。 しかし。 もう一度風が強く吹き、またカーテンを揺らす。私は咄嗟に手を伸ばすけれど、それよりも少し早く彼は姿を消してしまっていた。 次に目を開くと、自室の天井が視界に広がっていた。 私はため息を吐いて体を起こす。 …私は、『彼』の名前を思い出せない。
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