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もう一歩、斉藤さんに踏み込みたくなってしまった美桜の微妙な変化を、母は敏感に感じ取ったようだった。
「美桜、もう斉藤さんと会うのはやめたら?」
二回目に母が言ったのは、美奈が霜田さんとでかけている日の午後だった。
「なんで?」
美桜は下を向いたまま聞かなくてもわかっているのに聞いた。
(斉藤さんとの距離が近づいているんじゃないの?)と言いたいのだろう。近づかない二人の関係を思うと、(そんなのじゃない!)と思いっきり否定したくなる。
「斉藤さんがかわいそうじゃない?」
「えっ? どうして……」
美桜は意外な母の言葉に、思わず顔をあげた。
「スパッと切れた傷よりも、切れないはさみで切った傷のほうが、痛いし治りにくいんじゃないの? ママももっと早く言えばよかったんだけど……。あの事はお母さんも動揺していたしね」
美桜が涙をこぼしたのをみて、「えっ、あらあら。どうしましょう」と慌ててティッシュを箱ごと差し出した。
お母さんは、世間体を気にしているのではなかった。世間体ならば、正面から打ち負かせると思っていた。けれど斉藤さんの傷を癒しているつもりで、塩を塗り込んでいると指摘されると、突然足元がグラグラと揺れ始めたようだ。
「でも……」
美桜はその後に続く言葉が見つけられなかった。
(違う、傷つけたかった訳じゃない。斉藤さんをなぐさめたかっただけだ。いや、それも違う。ただ好きなだけだ……)
涙をこぼし続ける美桜の肩に、一瞬手を置くと、
「でもママは、美桜のママだから……、美桜がいいようにすればいいわよ。やっぱり」
と言って、部屋から出て行った。母は自分のことをなぜかお母さんではなくて、子供の頃のようにママと言っていた。「ママ」という響きには、美桜を守りたいという母の気持ちが籠っていた。世間の非難から。正邪から。そして斉藤さんの気持ちをかき乱す罪からも。
美桜は初めて自分が斉藤さんを好きでいることは、斉藤さんに美奈を忘れさせない事なんだと知った。
斉藤さんは美桜と会うたび、美奈を思い出して胸の傷の痛みを感じているのだろうか?
そう考えるものの、美桜は斉藤さんに会うのをやめられなかった。斉藤さんの悲しみに美桜自身で上書き出来れば、と祈るような気持ちだった。
※
「今度の日曜日、美奈の結婚式だね。」
ある日の別れ際、斉藤さんが言った。鳩にポップコーンをあげた公園だ。ベンチに座ると、道を挟んだ向こう側に川が見える。夕日が少しずつ、暗く色を失っていく時刻だ。
「えっ…?」
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