第1章

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 俯いていた両吉が上目がちにかえでを見た。両吉の親父の所為で花は売られ、挙句為吉は首をくくってしまった。その上借金で田畑や楮を三国屋に奪われ、いま西野村は大変なことになっている。両吉にしてみれば合わせる顔がないのだ。 「か、かえで……すまねえだ」蚊の鳴くような声である。 「両吉のとこも犠牲になっただけだ。謝る必要ねえべ」かえではわざと明るく言った。  それから四半刻後、香乃に着替えを手伝ってもらい、若侍の姿になったかえでがみんなの前へ現れた。両吉はちょっくら村の様子を見てくると外へ行っている。 「ほおー」と井口長兵衛が歓心する。野袴に道中羽織、長い髪を後で束ねている。 「似合っておるぞ、これならどこから見ても男だ、追手より言い寄るむすめを振り払わねばならんぞ」天野が冗談を言った。それほどかえでの姿は自然なのである。  井口長兵衛が奥の部屋へ消え直ぐに戻ってきた。手に刀と脇差しを持っている。 「かえで、これを授ける」 「し、師匠……」受け取る手が微かに震え、かえでの目から涙があふれる。  井口長兵衛は何も言わず深く頷く。  ふたりには分かるのだ。これが最後になるかも知れないということを。この刀と脇差しは井口長兵衛の形見だということが。  姿を消していた両吉が戻って来た。作業小屋の喧騒も収まり、そろそろ百姓たちは家へ戻るころだという。 「だが、侍がそっちこっちに一杯だ。何かを狙ってるみてえだべ」 「何かとは?」天野が訊くが両吉は首を振り、「そう感じるだけで分かんねえ、ただ、今直ぐ水戸へ向うのはあぶねえです」と言った。 「村人が家へ帰れば奴らも警戒を解くだろう。それを見極めてから出発しよう」井口長兵衛が静かに言った。  しばらくすると表の道がざわつき始めた。障子を開けて覗くと村人がぞろぞろと帰って行く。どの姿も俯き足取りは重い。どうやら惣介は村人を説得したようだ。  その惣介が疲れ切った表情で戻って来た。かえでの横にいる普段着姿の香乃に怪訝な顔をしたが、「わたくしは残ります」という一言に「しょうがねえ嫁だ」と言ったきり。  惣介にあらためて天野が経緯を話すと一瞬思い迷う表情を表したが、聞き終えると自分自身を納得させるように唇をきつく結び軽く頷いた。そしてかえでに向い、 「おめえは俺の娘だ。必ず江戸へ行ける。もし追手が来たら、かまわねえ斬りまくれ! この藩におめえより強い者はいねえべ」
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