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 思えば、俺は健のことをなにも知らない。どんな家に住んでいて、家族はどんなひとで、どんな幼少時代を過ごしたのか、そんなことを、健の口からなにひとつ聞いたことがない。話し上手で聞き上手だからそれまで気づかなかったが、健は自分のことを一切明らかにしていないのだ。  自分が知らない健の姿を、電話の向こうの女は知っている。電話が鳴る度に、俺は憎悪にも似た感情を抱くようになっていた。  叶うはずのない恋だと思っていた。その恋が叶って、夢のようにしあわせな日々だった。それなのに、恋の喜びはいつの間にか消え、憎しみや苦しみが荒れ狂う波のように押し寄せてくる。  俺は健に執着し、嫉妬も不機嫌もあらわにした。その度に健は少しこまったような顔をしたが、俺に対して優しい態度を崩さなかった。このままでは、いつかは見限られてしまう。頭では分かっていても、健を前に俺は完全に自分を見失って、感情のコントロールは不可能だった。  いつかこの恋は終わる。俺は自分にそう言い聞かせた。いつか終わりが来る。その日が来たときに、ああやっと来たか、と冷静に受け止められるように。すこしでも胸の痛みが和らぐように。いつもそんなことばかり考えていた。そういう、つらい恋だった。  そう、いつか終わりが来ると散々自分に言い聞かせておきながら、いざその時が来たら健を殴るわ蹴るわ悪態つきまくるわで、最低の別れになってしまったのだ。しかも、幾度となく頭のなかでシミュレーションしたはずのそれは、俺の想像をはるかに超えるつらさだった。  目が覚めたら悲しみに襲われる。その次にやってくるのは、痛みだ。胸をえぐるような、胸の痛み。泣いて、悶えて、憎しみの感情を吐き出す。それでも疼痛はおさまらない。泣き疲れて眠る。浅い眠りのなか、悲しい夢を見る。  このまま消えてなくなってしまえたらいいのに、そう何度となく願って目が覚めてもまた、こうしてベッドの上で丸まったまま、悲しみの底に沈んでいる。
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