0章 生まれる

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「素晴らしかった。」 古田次郎はベッドの上で自分の人生を振り返り、そう呟いた。 自分の人生を振り返って、悔いなく素晴らしかったと言える人はそう多くはないだろう。だが、古田の人生はいつの時代も輝かしかった。 地方でかなり人気のあったB大学に進学した古田は、1年間のアメリカ留学に行き、現地で鍛えた語学力を活かして、卒業してからは通訳として世界中をとびまわった。若さゆえか、自分には何でもできると思っていたが、実際、身の回りで起こるトラブルは難なく解決できた。 30歳になると、交際していた大学の同級生と結婚し、息子も1人生まれた。家族ができたため、日本国内での仕事が増えていき、40歳になってからは、上司から、会社で新人達に英語を話せるようにする為、君から教えてくれと頼まれ、後輩と関わる時間も多く、かなり慕われていた。 それからしばらく安定した生活が長く続き、60歳になって定年退職を迎えてからは、息子はもう家を出ていたので、妻と2人、静かに幸せなセカンドライフを過ごしていた。だが誰も老化には抗えず、だんだんと歩くだけでも膝が痛くなってきた。最初はあまり気にはしなかったのだが、70歳になった頃にはもう歩けなくなっていた。 病院での入院生活。気付けば友人や毎日来てくれる妻の見舞いが、日々の楽しみになっていた。 そして76歳の現在。これまでいろいろな国でいろいろな人を見て来たからわかる。 俺はもうすぐ死ぬ。 もうこの1年間はベッドで寝たきりの生活になっていて、体を起こすのもつらいほどだ。 今こうして自分の人生を振り返ってみたが、今死んでも悔いはない。素晴らしい人生だったと思う。妻には悪いが、少し先に天国に行くだけだ。またすぐ会える。本当に恵まれた人生だったと思い、その日は目を閉じた。 「ピーーーーー」 その音は悲しい音色のはずなのに、古田の顔は笑って終わっているように見えた。 深い闇の中、なにやら懐かしい白い光が差し込んできた。朝か。だがいつもと違う朝だとすぐ気付いた。目を開けるとベッドの上だが、見覚えのない天井。それに誰だ?俺の手を握ってベッドに頭を落として寝ているこの中年の女は... 意味が分からず部屋を見回すと鏡を見つけた。するとすぐに見えたのは、ベッドの上でキョトンとしている見知らぬ少年、恐らく10代前半だろう。 それが自分の体であることも、その少年の名前も、まだ俺は全く理解できていなかった。
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