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子守唄がやんだ。肩で息をしている。額にも汗の珠が吹き出しては流れ、吹き出しては流れ。
「こわがらないで」
つかみどころのない女の声が耳元にふれてきた。
「うわああっ!」
力任せに刀を振る。しかし霧を分けただけですぐに繋がってしまう。
「いつもそうして近づく者を斬っていたのね」
「知ったようなことを言うな」
後ろか? 右か? 左か? 振るっても振るっても手応えのない霧ばかり。
「誰であろうと斬るの?」
「誰だろうと斬る」
「親切でそばにいた人もいたでしょう」
「信じられるものか。裏でなにを考えているか。偽善者ほど臓物は真っ黒だったよ」
ひきつりながらも笑ってみせる。
「だれも信じぬ。恐怖は斬り捨てる。私はそうやって生きて来た」
「許して。わたしがあなたを独りにしたせいで」
霧が役人の前に集まってきて人の形を作り始めた。人影は袖で顔を隠して泣いているように見えた。
「だれだ、貴様は」
「思い出せませんか」
汗が切っ先に落ちて、肩の力が抜けていくのを感じる。
「ねんねこよ おころりよ」
女は背を向けて唄いだす。この子守唄は記憶の扉を開く。
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