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一、
「ふ、わ、あぁ~あ」
「この馬鹿!」
南町奉行所の常周り同心遠藤兵衛は、人目もはばからず大あくびした後輩の頭を平手ではたいた。小柄な兵衛が長身の後輩の頭を叩くには軽く飛び上がらなければならない。
「痛い、なにをするんですか」
ちっとも痛くなさそうな顔で後輩は答えた。
「てめえ、遠慮会釈もなしに大あくびしやがって! ここをどこだと思ってやがる」
「ここ……って、金杉川ですね」
はたかれたのは兵衛より年若い同心だった。まだねぼけているような目であたりを見回す。
神無月の金杉川土手には丈の高いススキが群生し、朝の風をうけては朝の光を右に左に跳ね返している。
少し先の赤羽橋の上には物見高い野次馬たちが鈴なりになってこちらを見ていた。
「そうだ、そしててめえの目の前にあるのはなんだ」
「……ホトケさんですね」
二人の同心の足下に横たわっているのは、縞の着物を着た町人の男だった。大きく目を見開き、腕を胸に当てている。その胸は血で真っ赤だった。胸の傷からあふれ流れた血が、着物の前だけでなく、背中の下にまで流れている。
「殺しの現場で大あくびたあ、いい度胸じゃねえか、見習いのくせに」
「すみません、朝早かったもので」
「朝五ツ(八時)だぞ、職人ならもう一稼ぎしてるとこだ。それに下手人はもっと早起きだな。血の渇き具合からすると明け六ツ(六時)くらいってとこか」
「なにもそんな朝早くからせっせと人を殺さなくてもいいのに」
「やかましいっ! 得物は鋭い刃物―――だが大きさからして匕首や刀じゃねえな、魚包丁ってとこか」
凶器は見当たらなかった。かなり深く刺さったとみえ、腹全体が真っ赤に染まっている。
死人の顔には恐怖より驚きの表情が張り付いていた。
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