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「三〇秒待ったよ、ちゃんと」
「時計の秒針をカウントする前に、考えるべきことがあるでしょ」
「ちぇー」
アヒル口になってみせる彼は、スーツ姿のままだった。どうせ帰り道にあるから、帰るのだるくてそのまま来ちゃったよ。あたしが冷蔵庫からチョコレートではなく麦茶を取り出しているとき、背中からそんな声が飛んできた。人の家を高速道路のサービスエリアみたいに使いやがって。そんな気持ちも脳内をよぎったが、振り返ったとき、あたしの顔にそんな気持ちは一ミクロンも滲んでいなかった。はずだ。わりと頑張って笑顔をつくったつもりだし。
あたしは訊いた。
「にしても、どうしたの。いきなり」
「え?」
「会社帰りに寄るの、珍しいじゃん」
珍しいというか、下手をすれば初めてだと思う。あたしが忘れているのなら別だけれど、彼があたしの家に来るのは、基本的に休みの日の、昼間かもうすぐ夕方くらいに差し掛かろうかという頃合いだったはずだ。
「あー。えっと、まあ」
急に、彼はどぎまぎしはじめる。心なしか、耳が赤い。そういえば彼は、女性とお付き合いするのがこれで片手で数える二度目だ、と教えてくれたっけか。二度目があたしみたいなおばさんでいいのか、とも思ったし実際に訊いたけれど、前の人は二つ上の人だったから、と満面の笑みで教えてくれた。もっと否定するべきポイントがあるのだけれど、二度目だと言うなら、まあ目をつぶってあげようと思った。
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