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 低からず聳える断崖に絶え間なく打ちつける波濤、複雑な森林部の連なる陸路で辛うじて繋がっている故郷とこの土地。男はいつも陸路は通らず、丸木舟を漕いで土地北面の湾部を渡ってきていた。なけなしの金をはたいて買った古着の、毎度同じ格好である。陽光と潮風に焼け、次第に垢じみてくる男の衣服は見る間にみすぼらしくなった。そんな男に女が、寒くなるからと上着を贈ったのは、二人が出会ってから初めての秋のこと。その上着もやはり古着であったが、背の部分にわずかだが綿が詰められていた。元来、近づきたいと望んだ有力なる一団の、頭目の妹という事実のみに着目して近寄った女だった。しかし女は、男の身を案じた。驚き半分に男が女を見ると、女は眦の釣り上がった目を細め、歯を見せ笑った。煙草を好む女であるから、歯がくすんでいた。 「寒くなるから」  逡巡。しじま。抱擁。気づけば男は女を抱きしめていた。おそらく初めての抱擁。男は奥手でも臆病でもない。今まで手も握らずにいたのはモノになるかどうかの見極めが付かなかったからだ。モノにならぬ女、それも有力者の妹に懸想していると余計な噂を立てられては先々面倒だ。男の腕の中女は泣いていた。理由はわからぬ。ともかく、狙いをつけた相手が本気になったのならばあとは雪崩の如し。  男は自分の言葉に酔う悪癖がある。  嘘は嘘のまま糊塗するべきと知るのは、人間常におのれに老いを見てからである。  男の生まれた土地はこの国の者どもに酷く忌み嫌われている。畜生の血筋だと本気で信じている者すらいる。猛々しい外見、狩猟を主とした暮らし、獣肉を常食することからの安易な想像。当然偏見である。男も狩猟民の裔であり、獣肉食を常としてきたが、只それだけだ。なにをして生き、なにを喰って暮らそうと変わりなどそう生じない。ましてや外見の差異のみを論って人品を判じるなど論外。そうは思うが不慣れな異地で思う儘できようはずもなく、女とはつかず離れず、暫くはおとなしく、交易品を持って来ては煙草や酒や塩に替える生活が続いた。     
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