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学は無い、金もあまり無い、身長も体重も普通、しかしそろそろ中年太りが始まりそうなさえない男が今の俺だ。自分の腕で食っていると聞こえはいいが、この景気では正社員のほうがいい。安定性だけならアルバイト未満だ。明日首を切られても合法なのだから。 彼女は寂しがり屋で時に頑固。最低でも一日一回、俺を誘惑する。口に出さないが求めている気持ちを察して、黙って俺を誘惑してくれる。俺の側に来て、耳元でそっと囁く。その声を聴いたけで、意地も見栄どうでもよくなる。 そんな彼女の誘惑を、俺は受け入れる。彼女にとっても俺にとっても、それは相手の存在を確認する一種の儀式となっている。すべてを自分の責任において行動する俺にとっては、唯一依存できる、癒しの存在。 俺は心の底で、誘惑されることを望んでいる。彼女が大切な存在であることは言うまでもない。彼女にとってどうなのかはあえて聞かない。俺の側にいることが彼女の喜びであるなら、俺にはそれに応える義務がある。もちろん義務だなどと思ったことはない。彼女に対する俺の気持ちだ。 それなのに、俺はいま、彼女の誘惑を、拒否した。 本当なら、彼女の誘惑に身を委ねたい。癒されたい。だが、今はだめだ。絶対に。今は仕事中だ。何よりも仕事を優先しなければならないのだ。彼女は俺の想いを知っていて、俺を毎日誘惑する。うっとうしいと思ったことは一度もない……ない、はずだ。     
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