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【3】
彼女を無視し、拒否しつづけて三時間、いつの間にか、誘惑がピタリと止んでいだ。
脳内に蓄積された彼女の囁きはもう残っていない。妙に仕事が進んでいるのはそのせいらしい。
ようやく俺の辛い気持ちに理解を示してくれたのか。そっと手を差し伸べ、そっと手を引いてくれる。そういうかわいいところもあるのだ。男は女からどんなに責められようとも、その合間や最後に見せるほんの少しの優しさにコロッと堕ちてしまうものだ。情けない話だが。
ありがとう。ありがとう。そして、すまない。彼女に心の中で感謝した。彼女は『いいんですよ。あなたの思うとおりにしてください』といわんばかりに、無言のまま笑顔で俺を見つめている。
そうなれば、俺は俺の仕事をするのみだ。彼女の配慮に応えねばならない。
テンションが高まる。こういうときの、彼女の真の狙いを思い出すこともなく。
仕事は順調に進む。珍しい関数を使った手順書の説明、スライドにつけるフリーのイラストの検索も、いつもよりはかどる。頭が軽くなり、時に新たな発想が生まれる。
世界中に俺の代わりはいない。静かな書斎兼オフィスでキーボードをたたく音だけがカタカタと響いている。
さらに一時間が経過したところで、ちょっとしたミスをしてしまった。十分間ほどだが、ファイルを保存せずに閉じてしまった。自動保存を十五分毎にしていて手動で上書きしなかったことも原因だ。ともかく、十分間の苦労が水の泡になった。
パソコンは得意なほうだ。個人で仕事するうえで困らないしアピールできるくらいのスキルはある。ブラインドタッチは、特に手元を見ることはなくなったが、素早く正確に打てているかは、あとで見返す限りは、おおむね問題ない。そんな使い慣れた状況であればこそ、単純ミスは休憩しなさいというサインに聞こえる。ミスにミスを重ねる前に、一息入れることにした。
これがいけなかったと、なぜこの時に気付かなかったのか。
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