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中庭から不安げに皆の集うバルコニーを見上げていたベルモンテが、声にならない声を上げる。
「何かあったのか」
反射的につられて上を見上げた入江姫が、思わず口を覆う。ぎょっとしてつられて上を見上げたロビンが声を上げそうになり、思わず入江姫と全く同じように口を覆う。
「どうかしたんですか、もしかして、ご主人様達に何か……」
「いや、ちょっと待って、坊ちゃんにはちょっと早いよ、ああ、でもそんなことなくもないかな、どうしよう」
皆の動揺ぶりを首を傾げながら見て、テオドールがバルコニーを見上げ、声にならない声を上げそうになって思わずぺたりと地面に座り込む。
「今、えっ、あの、もしかして、やっぱり、今の」
「つまりは僕のレパートリーが増えたということさ」
「あの、でも、いいんですか」
「何がかい?」
「あんな、そんなに………なんて、言えばいいのか、全然わからないけど」
手術の終わった患者の頭部を縫い合わせながら、振り返ることもなくクロード医師が言う。
「何があったかは知らないが、妻に手紙で書いたら喜ばれるようなことかね?」
入江姫がそんな彼に思わず問う。
「…………医師殿、奥方に聞いてみてたもれ。この国では、接吻に作法などはあるのか、と」
クロード医師が縫い終わった糸を切りながら、真顔を崩すことなく答える。
「作法か。私はもう、とうの昔に忘れてしまったが、妻に聞いて見るとしよう。果たして、覚えていてくれているかどうか」
「は、ははは母上に!?」
厳格一徹なはずの父の口から出た思わぬ言葉に、テオドールが座り込んだまま思わず頭を抱える。
「私も、ああ、すっかり忘れてしまったよ。随分と昔の様でもあるし、最近の様でもあるし……けれど、悪いものじゃなかったはず。……ああ、だけど、個人的な感想だけど、きっと全然足りてないんじゃないかな。二人とも、あんなに若いんだしね……」
まるで眩しいものを見るように、少しばかりの追憶が籠った言葉と共に息を吐いたロビンに、テオドールが言う。
「でもロビンさんだって、まだ若いじゃないですか」
「坊ちゃんに言われるとは思わなかったよ。あの世でうちの旦那が笑っているよ、きっと」
「………」
何故か、少しだけ胸が苦しいような不思議な気持ちになって、思わずテオドールはそんなロビンから目をそらす。
「そうさ、ずいぶん立派になったって笑って言うに決まってる。もう少し大人になって、キスの作法を覚える頃には、あのお師匠様も、クロード先生も、その奥さんもびっくりするくらいの立派な騎士になっているはずさ」
座り込んだ地面の隣に刺した柳の枝が、やさしく揺れる。
「けれど、これだけは忘れないでよ。坊ちゃんが私をこの城に連れてきてくれたあの日から、私はもう一度、自分の人生を取り戻したんだ。今日だって、そうだよ。自分でもびっくりするくらい、いっぱい人助けができた。私は誰よりも、テオドール、あんたにこそ感謝をしているってことをね」
背を向けたままのクロード医師が、静かに目を細める。
自分の知っている息子は、気が弱く、騎士の修行にも向かないような、そんな少年だった。いつの間に、一人の女性の人生を再出発させる力を持つような子に育ったのだろうか。
だが「騎士になる」という、自分があと一歩のところで果たせなかった夢を押し付けすぎて、息子なりの生き方というものを考慮することを、忘れていたのだろう。
ミーンフィールド卿、森の騎士、とも呼ばれるかの騎士に、自ら挨拶に出向かねば。誰かの生き方を変えるような生き方を、自分の代わりに息子に教えてくれたその騎士に、羨ましさと感謝の念を抱く。ふと、白い小鳥が言っていた言葉を思い出す。
『彼を知る人は皆、テオドールが来てくれたことを本当に感謝しているわ』
森で生きる峻厳な騎士と聞いていたが、人は一人では生きていくのが難しい。白い小鳥が言っていた通り、医療棚に挟まれて身動きが取れなかった時にも感じたことだ。
バルコニーで、自分の背中側で繰り広げられているのであろう若者達と女王陛下の、戦い前の魂の交歓。次に妻に送る手紙はきっと、長文になるだろう。
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